石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

変わっていく時間。

なにか新しい考え方や価値観の話を聞いて
目から鱗が落ちた!
心にストンとおちた!
と思っても
その翌日に
ふと、自分の口から出た言葉は
まるで以前のままの価値観の言葉で
自分の心がちっとも変わっていないのにびっくりする
というようなことがある。


アタマでは解っているけれど
心が解っていない、
ということなのだと思う。
解ったけど、納得したけど、
しみこんでいない。
じぶんのものになってない。


ゆえに
ふと出てくる言動は
まるで以前と同じなのである。


世の中には「正しい情報」が氾濫していて
「そうなんだ!」とか
「なるほど、今までの自分の考え方は間違っていた!」とか
「思い込みが強くて、恥ずかしい!」とか
毎日のように思うのに
その後しばらくして
ちっとも変わらない行動をする自分に
びっくりして
がっかりする。


自分の間違った行動や考え方に気づき、
はっとして、
「こんなところは、改めなければ!」
と強く誓うのに
しばらくするとまた同じことをやっている。


人間は
どんなにたくさんの鱗を目から落としても
どんなにたくさんのものを心にすとんすとん落としても
なかなか
「本当に変われる」ものではないのだな
と思う。



一日や一週間や一年くらいでは
ぜんぜん変わらないのだ。


だから
古くからのいろんな業界には
「修行」
というものがあるのかもしれない。


自分の考えや行動が
正しくない
と解っても
いきなり自力で「変える」のは難しい。
たとえば
病気やケガを「なおす」のに似ている。
養生しなければ治らないけれど
養生したからって必ず治るわけではないのだ。
ケガや病気の方で、なんとか治ってくれている
ようなところがある。
時間薬とか
自然治癒力とかは
「自己責任」の外側にあるものだ。
さらに
誰かに治療してもらったり、看護してもらったりすることもまた
「自己責任」の範疇を超える部分をたくさん含んでいる。
「修行」であれば、師匠のような存在がいる。
これもまた、
自分の力の範囲を超えるものだ。


考え方や価値観を変える
ということも
ケガや病気を治すのに似ていて
時間薬とか自然治癒力とかの力を借りないとならないのだろう。
場合によっては
人の力を借りなければならないこともあるだろう。
自分の意志の力は、基本的に必要だけれど
それ「だけ」では
どうにもならないところがあるのだろう。


誰かに批判されたり、指摘されたりして
「ああ、自分が間違っていた」
と思うことだけでも大変なのに
さらに、その「間違い」をただして
価値観を変え
自分のものにするためには
どんなにたくさんの時間と労力と苦しみが必要になるだろう!


過去の自分と闘い
自分のプライドと闘い
だれかの無理解と闘い
闘って闘って深く傷ついて、
それでも毎日起きて、生きなければならない。


指摘されてもなにも変わらない(ように見える)人を見て、
指摘した人は、ガッカリする。
本人がその指摘を自覚しているなら、
指摘した人以上に、本人も、
ものすごくガッカリしてしまう。


自覚と、努力と、
その上に、「時間」が必要なのだ。
でも私たちはなかなか
その「時間」を待てない。


幼い頃から心に刻みつけられた価値観や考え方、
思い込みや認知の歪みが
ふと、行動にあらわれたとき
ゾッとするし
まるで、呪いや幽霊に取り憑かれているような気持ちになる。


もう逃げられないのか
という気持ちになる。


この先何年も時が過ぎて
「そのとき」がきたら
この呪いのようなものから解放され
すべての目の鱗が落ちきって
心の中のあらゆるつっかえが消え去って
いつも正しい答えを言える賢い自分になれるのだろうか。


ムリ


という気しかしない--;)


でも
ヤゴがトンボになるように
「そのとき」がくれば
今の自分とは別の自分になれるときが来るのかもしれない。




ユングの言う「統合」は
「そのとき」が来なければ、起こらない。
どんなに自分の問題を自覚していても
その自覚が、
新しい自分の誕生に至るまでには
時が必要なのだ。
「わかった」だけでは終わらないのだ。
花が咲くように
実がなるように
私たちも、何か新しい自分に「なる」ために
十分な時間を必要とするし
「機」を必要とするのだ。


もし、その「時間」、その「機」が
いつか自分にも
本当に巡ってくるのならば
今、自分の真の弱さや誤りや歪みに直面して傷つく
というその痛みを
なんとか、引き受けていこう
という
微かな希望がわく。


その「時間」「機」は、
時計やカレンダーでははかれない、
特別な時間だ。