石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

私のハト。

ちょっとカッコイイ鳩が撮れた。
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私にはこのハトとあのハトの見分けはつかないが
ハト同士では、相手の個性や際立った特徴が
ありありとみえているのだろう。


外見の違いは、だれにもすぐにわかるけれど
性質とか特技などは、なかなか、わからない。
微かに「自分はこうだな」とわかっていても
その性質をどうやってこの世に適応させていくか、
これがさらに、一つの難問だ。


自分に、ある特徴的な性質や傾向があったとして
それに意味をつけて、
それを使っていく
ということを考えるのは
だれにとっても、簡単なことではない。
それが長所なのか短所なのかということも
ひとつの「意味づけ・解釈」であり「使いよう」なのであって、
決して、性質や傾向自体に「よしあし」がくっついているわけでは無い。


「ゆったりした、寛容な性質で、
どっしり構え、腹が据わり、
人を待つのが苦にならないあなたには、
この仕事がぴったりですね!
あなたがこの場にいるだけで、
みんな落ち着いた気持ちになれます、
安らぎと、安定したペースができるんです!」

みたいな地平にたどり着くまで、
その人はどんなに、
自分をグズだとか、鈍感だとか、ぼんやりだなどと責めただろう。
その性質にあわない場所に立って
周囲からつまはじきにされたこともあったかもしれない。


多くの人が「自分を知りたい」と考える。
でも、もしかすると、それは
本を読むように自分を読み取る、ことではなく
多分
「自分の中にある欠片を繋げて、
それをさらに、この世の中に結びつけて、
一つの意味ある解釈・意味づけをする」
ということこそが
「自分を知る」という作業なのかもしれない。


私たちの「性質」は
私たち自身の属性のようでもあるけれど
「場」によって、それがかわる。
ひとりの人が、
ある場ではイライラして焦りやすいのに
別の場では落ち着いておだやかにふるまえる
というようなことは珍しくない。
「場」と「自分」が出会ったところに
撞木が鐘をつくようにして、ひとつの音が出る。
撞木が変わっても、鐘が変わっても、
音は変わるのだ。



この年になっても
「自分が何か」
ということがなかなか、わからない。
「なにものかになりたい」
という思いを多くの人が抱くとして
その「なにものか」とは一体、なんなのか。


自分が「なにものか」がわからないまま
明後日の方向にもがき苦しんで進むとも進まないとも判然としない日々を
私同様、つづけている人も、きっと、たくさんいるだろう。
それでも、もがきまわっていつか
「そうか、これだったんだな」
というのを
みつけてみたい。



ハトの中にも
「オレはハトらしくないな」とか
「ハト社会にどうもなじめないな」とか
思っているハトもいるんだろうな
などと
想像するのだった(いや、そんなのないかもしれないけど(そんなのは人間だけの妄念なのかもしれないけど))。