石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

行き止まり、その先。

今日は「京都マラソン」が開催されていて
京都の町はあちこちが通行止めとなっていた。
多くの人が道を走り
沿道にはそれを応援する人々が
更に長い列をなしていた。



私は子供の頃、体育の授業が苦手であって
今もスポーツがあまり好きではない。
体育と言えば
「皆の前で(ある意味身体的に)恥をかかされる」
というイメージが今も、
私の脳裏にこびりついてはなれない。
私の子供の頃だけのことで
今はそうでもないのかもしれないが
体育の授業という場では
活躍する人は限りなく格好がいい一方で
できない人間は半ば笑いものになってしまうのだ。
私は子供時代から太って不格好であったから
ただ立っているだけでも恥を感じていた。
劣等感、自己嫌悪、その他諸々のいやなイメージが
体育という教科、ひいてはスポーツ全般に
べったりひっついてしまっているのである。
これは誰が悪いということではなくて
単純に
私がたまたま、
そういうめぐりあわせだった
ということなんだろうと思う。
他の教科にそんなような思いを持っている人もきっと
たくさんいるに違いない。


私にとっては
スポーツは体育の授業の延長線上にある世界であり
ゆえに
オリンピック競技の放送や
マラソンする人々を見ると
昔の辛い思い出が自動的に蘇り
実に複雑な思いがする。


ただ
今、自分なりに仕事をし、生活をいとなみながら
子供の頃、強制参加だった「マラソン大会」などの記憶を甦らせて、
思うこともある。
それはこんなことだ。


たとえ、
足の速い子たちはすでにみんなゴールを済ませていて
自分はまだスタートラインを出たか出ないかで
すでに決して追い着くことはないし
負けは確定していて
棄権した方が皆にとって都合がいいだろう
といった状況であっても
今現在の場所で走るしかない、ということがあるのだ。


もうとっくの昔に遅れきっていて
今更どうにもならないとしても
それでも
走らなければならない
走る以外、てだてがない
ということがあるのだ。


勝てなくても
走ることに、何の意味もなくても
走ってもだれも利さないどころか
メイワクになるかもしれなくとも
それでも
走るしかない
といった状況が
人生には、あるのである。



もちろん
この「走る」は
純然たる比喩である。
「生きる」と言ってもいいかもしれないし
その他全ての、やらざるを得ない作業に当てはまる。


なんだかわからないけれど
そうするしかない
ということがあって
遅れていようが
追い着かなかろうが
途中で打ち切られようが
今はもうどうしようもなく
そこから進むしかない、ということがある。


マラソンをはじめ、スポーツの競技諸々を見ると
そういうことを思う。
最下位の人
もっとも失敗した人
どうにも追い着かない人。
それでも走らねばならぬ
ということが
なにか、ひしひしとリアルに感じられる。


たぶん、多くの人が
そんな思いをすることがあるのではないか、という気もする。
大成功をした人であっても
「もはやこの遅れは取り戻せない」
という完全な絶望を
感じたことがあるのではないか、と想像する。
そういうことを「挫折」というのかもしれないし
また、別の言葉で呼ぶ場合もあるだろう。


もう遅れは取り戻せない。
絶対に追い着きはしない。
負けが確定している。
その状態で、何の希望もなくても
走ろう
と思わせる、その動機は
一体何なのだろう。


あきらめが悪くてやめどころがわからない
という場合もあるだろう。
あるいは
勝ち負けの基準に認識の歪みがあるのかもしれない。
本当は、もう少し進んでみないとわからない、
という場合もあるだろう。
でも、そもそも本人が絶望している以上
動機は
そのあたりを探しても
みつかるわけもない。


絶望した上で尚、人間を進ませるものとはなにか。


人は不思議な生き物だなあと思う。