石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

お正月のこと



1月3日、火星と並んだ月。

こんなにきれいに星が映り込んだのが撮れたのは初めてで
とても興奮した(!)
別に特別な機材は何も使ってない。
玄関の門柱にカメラを持つ手を固定(乗せただけ)して、
autoモードでぱちっとしただけ。コンデジすごい。



出版社気付で読者の皆様から頂いた年賀状やクリスマスカード。
(お返事できなくてすみません、ありがとうございます!
ファンレターなどもほぼ、お返事ができないで申し訳ないです。。
でも、頂くととてもうれしいのです!ちゃんと読んでます!)


怒濤の年末の追い込みを終えて
お正月は少しゆっくりしよう・・・
と思っていたらいつのまにかもう月末(汗
歳のせいか、例年より回復に時間がかかり
まだぼんやりしている(マズイ



お正月は言わずと知れた
「1年のはじまり」
である。
「はじまり」や「スタート」という言葉は
フレッシュで、まっさらで、
とても純粋な感じがする。
でも、その渦中にいる実感としては
混乱していたり、
まだ過去を引きずっていたり、
迷っていたり、
ごちゃごちゃだったり、
とにかく神経質になって、何が始まっているのかもわからなかったり
等々なわけで
「スタート」は、
すくなくとも当事者にとっては
そんなにキヨラカなものではない。


昨日
稀勢の里関のインタビューをふと、目にしたのだが


「いいこともわるいことも、
すべてその日だけのことにして、
次の日にはまた、
新しい気持ちで臨む、
ということをこころがけた」


というような話をしていた。
そのとき、インタビュアーが


「やはり、悪いことを引きずってしまうことがありますか」


というようなことを聞いたら


「良いことを、ひきずってしまうというか、
あの時はこれでうまくいったな、みたいに
思ってしまうと、ダメだな、ということがありますね」


というふうに応えていた(と思う(ビール飲みながら見てたので正確ではない



「嫌なことや失敗を乗り越えるより
成功を乗り越えることの方が難しい」



と、いつか、誰かが言っていた。
それもたぶん
スポーツ選手だったかもしれない。


「いいことも、わるいことも
すべて、その日で『終わり』にして、
次の日は、新しい日として、
気持ちよく始めることを心がけました」


というようなことを
何度か言い方を変えて
稀勢の里関は、言っていた(と思う(大事なことなのでもう一度書くが、ビール飲みながら見てたので正確ではない


たぶん、
そのように「意識」しなければ
「まっさらな、気持ちよく始まる日」
というのは
おとずれないのかもしれないな
と、私は思った。


ただありのままに生きていると
いいこともわるいことも
翌日、思い出してしまうし
気分は継続していく。
たとえ「いいこと」であっても
少なくとも戦いの場では
昨日の勝利を思い出してにんまりしているようでは
おぼつかない、ということなのだろうか。



「良いことが起こって、良い気分になる」の「良い」と
「気持ちよく新しい1日を始める」の「良い」とは
すくなくとも、稀勢の里関の語った話の中では
まったくべつべつのものなのだ。


それは、たとえば、満月と新月にも似ている。
何かを達成して嬉しい気持ちが満月なら
まっさらな、なにもないところからスタートしていく「いい気分」は
新月的なものだとイメージできる。
そこには、まだなんの光も生まれていない。
だからこそ、
そこから勢いよく光を生み出し、大きくしていける。
新月も「いい」し、満月だって「いい」けれど、
その「良さ」には、違いがある。



あるいは、
「気持ち」というのは
いいとかわるいとかの別なく
「終わらせる」ことをしなければ
「はじまる」こともできないのかもしれない。


稀勢の里関が語った
「いいこともわるいこともその日のうちで終わりにして
次の日はまた新しい日として、気持ちよく始める」
ということは
たぶん
だれにとっても
「そのように心がけなければできないこと」
であって
「朝、新しい日をはじめる」
のは
「自然にそうなる」ようなもんではないんだろう。


年末年始
大晦日と元旦
1年の終わりと始まり
という仕掛けもまた
それに近いものなのかもしれない。


「年末年始という切り替えの仕掛けを考えたやつは天才だな・・・・」


と、大晦日、年報が終わってしみじみ考えた。
もし、年末年始の切り替えがなければ
「終わり」がなく
「始める」こともできなくて
ひょっとすると
私たちの命はすぐ疲れ果てて
より早く摩滅してしまうんではないか
と想像した。


年末年始は
そう「決めて」おかなければ
べつに、節目ではないのである。
たとえば星占いでも、
私の知る限り
現代の「元旦」には別段、
特別な星の配置などはない(私が不勉強なだけかもしれない(すみません))。
「1月1日はどうやってきまったの?」の問いに
http://www.nao.ac.jp/faq/a0307.html
国立天文台はこう回答している。
この一文に明確に出てきている星の節目的なものは
「3月21日は春分の日(昼と夜の長さが同じになってそこから昼が長くなっていく日)」
くらいである。
春分は、天文学的にも星占い的にも
文句なしの「節目」である。
そこを境に天体同士の位置関係のフェーズが変わり、時間が変わる。
ロムルス暦も(たぶん春分と関係して)3月始まりになっている。
二十四節気(暦の上では、今日は立春です、みたいなやつ)」とかだって、
星占い的にもビシビシ節目感があって気持ちいい(どんなだ
旧暦の世界では、
満月も新月もカレンダーの節目だった。
それにひきかえ、
現代の元日は
星的にはなんとなく、食い足りない(私の個人的な感想です


春分の日(昼の長さと夜の長さが同じになる)とか
夏至冬至(昼の長さや夜の長さがMAXになる)とかのタイミングの方が
よほど節目感があるが
少なくとも現代の我々が用いるカレンダーは、
そういう区切りには、なっていない。


だからこそ
この「年末年始」という仕掛けの偉大さが際立って見える。
とにかく「節目だ」と決めて、みんなで守るのである。
カウントダウンをして、
一瞬で古い時間が終わって、同時に新しい時間が始まるのである。
みんなでそれを心から信じて、祝い、
特別な寝起きをし、特別なものを食べ、特別なものを着て、
いつもは行かないような所に行き、
知ってる人全員にハガキやメッセージを送るのである。
それで
時間に始まりと終わりができて
そこで


「いいこともわるいことも、
その年のうちのことだけ、として、おわらせて
気持ちよく新しい1年を始める」


ことができるのだ。


相撲には
私は、あまり興味が無いが
たまに見ると
その儀式や様式の重厚さに、あらためて驚かされる。
私たちはたとえば、「元日」のような生活の儀式の多くを
簡略化し続けている。
正月に晴れ着を着る人は、私の子どもの頃に比べても圧倒的に少なくなったし
お歳暮やお中元も、最近は年々売り上げを減らしていると聞く。
でも
「終わりと始まり」
だけは失っていなくて
その境目をたいせつに守っている。


一夜のうちに時間を一度殺して
明け方、再生させること。
「仕切り」という言葉についてちょっとググっていたら
http://ameblo.jp/hoshigane/entry-11593005642.html
こんな記事を見つけた。
他の資料などは当たっていないため
詳細はわからないが、
「仕切り」と「立ち合い」というのは
思えば
その時空の中に、
2人の力士が目に見えない「境目」をつくり、
さらにぶつかり合ってその境目を破壊する
といった行為なのか、
と思った。


そういや
「クロノスとカイロス
の話をする時
相撲の立ち合いの例がよく出てくる。
時計で刻むことのできる時間(クロノス)と
時計では補足できない時間(カイロス)がある
という話である。
「制限時間いっぱい!」の制限時間は、時計で計る。
これがクロノスである。
一方、力士同士の呼吸が合って初めて成立する「立ち合いの瞬間」は、
いつ巡ってくるかわからない。
これがカイロスである、という。


しかし
ある意味でもうひとつの「時間」のありかたが
ここに、表れているような気もする。
それが「仕切り」である。
すなわち
絶え間なく流れていく、
あくまで連続的であるはずの時間のなかに
人間が自ら
「境目や切れ目を作る」
ということだ。


カイロス」の、
立ち合いが成立する、天から降りてきたような時間
というものと、
人間が「仕切る」時間とは
またべつのものだと思う。
かといって、カレンダーや時計で機械的に刻める時間とも
この「仕切られる」時間は、
ちょっと違う所にあるような気がする(気のせいかもしれないけど


空間を「断ち割る」ことは、たぶん誰にもできないけれど
ついたてなどで「仕切る」ことで
1つの空間を二つに分けることはできる。
「ひとしきり」という言葉も
そのあたりから来ているらしい。
ビジネスの世界で「仕切り値」という言い方もある。
これは、すでにある価格の世界を
ある関係性の元に「仕切った」ということなのだろう。
目に見えない時空の境目は
何度でも「仕切り直す」ことができる。



私たちはそうして
目に見えない時空の境目をいくつも生み出しては
まっさらな新しい気持ちを生きようとする
ということなのか。


空にも時間にも空間にも「境目」はない。
そこを強引に仕切って、割って、
私たちは世界を意味づけ、読み取ろうとする。
言葉もまた、ものごとを「きりわける」道具である。
「理解」は、ことわり、ほぐすことだ。
どこかを切り分けた瞬間、
「分けられず連続している部分」もまた、
特別な意味を持ちはじめる。
切ることによって、くっつける。
そういうこともできる。
たとえば
「私たちは親友だよね!」
と言った瞬間
親友とまでは言えない人々との関わりは薄くなり(つまり、友という範疇では「仕切られて」しまい)、
「友だち」より強まった「親友」としての相手との繋がりは、連続性を増して濃くなる。


そうやって
切り分け、つなげて、
世界が物語になり
私たちは希望を持つことができる
ということなのか。