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石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

メモ


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平成28年熊本地震災害に伴う救援物資の受入れについて
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_15422.html?type=top


平成28年熊本地震義援金の募集について
https://www.pref.kumamoto.jp/kiji_15416.html


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熊本が荷受け停止になっていることを知ってください http://fb.me/4xnXYDHhs


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熊本震災を受け、ホンダが「インターナビ」の道路通行実績情報を一般公開へ(オートックワン)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160415-00010002-autoconen-ind

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ウェザーニュースの特設ページ。
http://weathernews.jp/s/topics/201604/150005/?fm=tw0


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被災地いらなかった物リスト まとめ -
http://togetter.com/li/585312

震災時に役に立ったもの まとめ
http://togetter.com/li/322992


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「安否の電話はちょっと待って!」大地震が起きた時やるべきこと -
http://togetter.com/li/962633


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熊本地震の余震ペースを電車の時刻表風にしてみた…「終電ないはずの時間が一番多い」「直感的にヤバさがわかる」 -
http://togetter.com/li/963386


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https://twitter.com/ar_negu/status/651739812500668416



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「当事者にしかわからない気持ちがある」
というようなメッセージを頂いた。
それは、本当にそのとおりだ。


大災害でなく、
たとえば、個人的に大事な人を失ったとか、
自分の体の一部を失ったとか
火事で全財産を失ったなんていう場合でも
「当事者にしかわからない気持ち」
というのが絶対にある。
ガンになった人が
「孤独を感じた」
と言っていた。
誰の人生にも
「これは当事者にしか絶対に分からない」
と思える体験が
いくつかは、あるものではないだろうか。


東日本大震災の時、
当事者でない人々が
「当事者にしかわからない気持ち」
に、
どうすれば近づけるのか
ということで
苦しんでいるように見えた。
絶対に分かってもらえない気持ちを抱えている人と
絶対に分からない気持ちを持つ人を見ている人との間には
絶望的な断絶がある。
そこで
わからないのは申し訳ない
なんとかして役に立たなければ

急き立てられるような気持ちでいる人も
たくさんいたようだった。
「当事者ではない」ことについて
うしろめたさ、罪悪感みたいなものを
多くの人が感じていたんだろうと思う。
たぶん、私自身にも
そんなところがあったんじゃないかと思う。


必要なのはたぶん
「当事者でなければ分からない気持ち」を、
無理やりわかろうとすること、では、ないのだろう。
東日本大震災の被災地に何度か行ったりするうちに
そう思うようになった。
「同じ気持ち」になる必要はなくて
ただ
「気にかけて、そして、できることをする」
というだけで
いいんだ、と思った。
「当事者と同じ気持ちになろうとする」ことと
「気にかけて、できる範囲で、できることをする」こととは
べつべつの、ぜんぜんちがうことなのだ。


あくまで行動の上で
求められている限りの物資や義捐金を送ったり
そのほかの様々なサポートをしたり
あるいは、社会全体を見渡した時に
自分の役割を果たしたり、
邪魔しないようにしたり、
といったことができているなら
極端な話、
胸の中に「共感」があってもなくても
さしたるちがいはない。


もちろん
「人の気持ちをわかろうと努力する」のは
すばらしいことだ。
でも
人の気持ちを全部ちゃんと理解できるだろう
と考えるのは
やっぱり、傲慢なことで
むしろ
「わからない部分がある」
ということを受け入れたところからしか
はじまらないこともあるだろうと思うのだ。


今も
あの時と同じで
「できることをやる。できないことはできないので、あきらめる」
ということしか
ないんだな
と思う。
被災地にいない人でも、こういうときは
不眠や体調不良になることがある。
「普段どおり」さえ
できなくなることがある。
そういうときは
「自分は被害にあったわけでもないのに
なんでこんな状態になるんだろう、なにもできないんだろう」
と、自分を責めてしまう人もいる。
でも
「できることをやる。できないことはできないので、あきらめる」
の中には、
そういうことも入っている。
体調不良になって精神的に不安定になることさえ
私たちには、自分ではどうにもできないのだ。
「ふだんどおりにできない」なら
「ふだんどおりにできない」のだ。
それを、うけいれるしかない。


私たちは話し合うことで安心する癖がある。
口に出したってどうしようもないことを言い合うだけで
わずかに心が落ち着く、という具合にできている。
大きな災害が起これば
それが自分の住む場所から遠く離れていても
感情が揺れ動いて
いろんなことを言いたくなる。
普段の自分からすれば「らしくない」ことだって
不安の中から、口をついて出てしまうこともある。
そういう時に、何も言わないようにため込むのだって
やっぱり「できないこと」なんだろう。


「できること」がどんなことなのか、
その中身に戸惑う人もいる。
やっていいことと、やらないほうがいいこと、
その区別も難しい。
同じことをしていても
やり方次第で、感謝されることもあれば、
迷惑になることもある。
でも、
その究極な判断でさえ
「自分に判断できる限界」
というのがあるんだろう。
人の意見を聞いたり、情報を集めたりしながら
「できるかぎり」で考えてやったところが
成功しようが、失敗しようが
それも、自分の限界だ。
うけいれるしかない。


できることを、できるかぎり。
できないことは、そのままで。
結局はそれしかないんだ

繰り返し、心の中で思っている。
そうやって私も、
心を落ち着けようとしているんだと思う。
できるだけ心を落ち着けないと
できることも
できなくなるのだ。


たとえば
そこに渦巻く悲しみや激情があったとして
それを受け取る器は
中身と同じようにじゃぶじゃぶしているわけにはいかない。
水がしみこまないほど鈍感で、丈夫で
いつもと同じ形なのがいい。
かぎりなくむずかしいことだけれど
やわらかくも、たいらかでありたい。


心にはいくつも、層があって
上層では何の共感もなくても
下層では深い信頼でまじりあっている
みたいなこともある。
私たちが意識の上で右往左往するのとはべつの層に
ちゃんと、もう一つの心があって
そっちのほうで、意識にのぼるほうの心ではできないことを
マメにやってくれているのだ
とも、思う。