石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!


わかる
というのは

わかるがわに「わかった状態」が
あらかじめ塗り絵の枠のように用意されていて
その絵に色が入ったとき
わかった
ってなる
ということなんだろう。


たとえば
数学で扱われる5次元とか6次元とかの話をされても
数字の扱い方はわかっても
それがどんな世界なのかが「わかる」感じはしない。


虹ってなに?
と聞かれて
水と光とプリズムの話をされて
じゃあ、水とは何か?
光とは何か?
原子とか素粒子とか、
どこまでも「それはそももどういうのもか」を突き詰めて分解してわかっていって
それであらゆる細かいことまで
人間がわかっている限りのすべての知識をえることができたとして
そのうえで
あらためて最初の
虹とはなにか
にもどったとき
「これで、虹のことがぜんぶ、わかったのかな」
と考えると
やっぱりどうも
「虹がわかった」
という感じは
しないんじゃないかと思う。



たぶんだれでも
自分がわかることができるようにしかわかることができない。
「そうか、わかった!」
とおもっても
その「わかった」ってどういう状態なんだろう
どこまで「わかれ」ば「わかった」になるんだろう
そのほかの「わかった」まで「わかって」はいないのに
わかったっておもってしまうのは
どうしてなんだろう
と考えると
「わかった!」
と思ったことも
なんだか、わかってなかったんだな
というふうに
後戻りしたくなる。


わかるようにしかわからない。
「わかるようにせつめいして!」
という言い方もある。


わかることになっているようにしか
わからないわけだ。

これだってたぶん
わたしがわかるようにわかっただけで
私がそう思うようになっていたところに色が入った
というだけのことで
ぜんぜんなにもわかったりはしていなくて
というのもまた・・・・
というふうに
無限ループになる。


そういう
無限ループの
枠のなかで
生きている。


      • -


「虹ってなに?」
と聞かれて
光と水とプリズムの説明をするのは
「時間ってなに?」
と聞かれて
時計の構造を説明するのと同じで
意味をなさない
という話を
確か中沢新一の本のどこかで読んで
すごく気に入って
自分の本でも引用したりしているのだが
じゃあ
「虹ってなに?」
の答えがほんとうは、どうなるかということについては
あまりちゃんと考えたことはなかった。
この問答は
たしか、チベット僧と中沢氏のやりとりで
チベット僧には宗教的な「こたえ」がちゃんとあった
ということだったと思う。


でも
宗教的な「こたえ」が
自分のものではないなら
ほかのこたえを探すべきなんじゃないか
こたえがないなら
こたえがないと思う
って
いちおう、着地しておくべきなんじゃないか。
もし、こたえがないなら
なんで人間が「こたえがあるだろう」と思うか
ということに
ふみこんでいかないといけなくて
それがたとえば
心理学とか、脳の研究とか場合によっては社会学とか文学、教育学とか
そういうものなんだろうけど


どこにこたえがあるとおもうか
ということもまた
じぶんがわかるようにわかる
ということのループの中にしか
見つからないものなんだろうか。