石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

世界の終わり

久々に
自転車に乗ったのだ。


近所の古書店に、ある本を探しに行ったのだが
なかったので
急いでいたのもあって、すぐに諦めて外に出ると
はす向かいの病院の駐車場から
バックでおじいさんの運転する車が出ようとしていた。
その向かい側に業者のトラックがとまっていて
おじいさんが出ると
道がほぼ、ふさがってしまう。


すると、
トラックと、出ようとしている車の間から
学生さんの集団がぞろぞろあらわれた。



おじいさんは車を半ケツみたいにはみ出したまま
学生さんが通り過ぎるのを待っていた。
私も、このおじいさんが行ってしまうまで待とうと思い
じっとしていた。


学生が行ってしまうと
トラックの影から
ひとりのお兄さんが荷物を載せた荷台を押して出てきた。
おじいさんはそれをまた、待っている
と思ったら
おじいさんは不意にドアを開け
お兄さんに


「見ててくれんか」


と言った。
トラックに自分の車が当たらないようにナビをしてくれ
というのだ。
お兄さんは慣れた感じで
バックするおじいさんに


「はい、みてますよ、まだいっぱいありますよ、
だいじょぶですだいじょうぶです」


と言ってあげている。


いいひとや・・・・


と思って見ていたら、
突然後ろから


「はい!そこのトラック!ここ駐車禁止ね!
すぐどけて!!」


という怒声がとどろいた。
ふり向くと、パトカーがいた。


私は
いつのまにか
前トラック(そして荷台)
斜め前おじいさんの車
後ろパトカー
という
3つの車にかごめかごめ状態になっていた!


私は何にも関係ないのだが
まるで舞台の真ん中に立たされたみたいになった。


なんかわかんないけど

はやくここを
脱出したい・・・・



軽くパニック状態になった。


パトカーは容赦なくトラックのお兄さんを煽る。
おじいさんの車はマイペース。
その向こう側にも一台、車が待っている。
みんなはやく逃げ出したい気マンマン。


やっとおじいさんが脱出すると
出口が出来たので
するんと抜けだした。


カオスだ
カオスだ・・・
(※)


つぶやきながら
しばらく全速力で走った。


私は
何から逃げていたのだろう。。(謎




まあ
私は車を運転しないので
ああいう車同士の細かい交通ルールは
よくわからないのだが


よくわからないなりに
切なかった。






この道は車通りのまばらな
住宅街というか、そういう道なので
人や車が1カ所に密集してわたわたしている
というのが
風景として、ちょっと異様だったこともある。
この日のルートは全体として
ややこしい道を避ける方向で、閑散とした道を選んでいたのに
かえってややこしくなったので
カオス感
が発生した(ような気がする


      • -


上の件とはまったくいっさい関係ないのだが


言いたいことを言う
のは
本来は別に
いいことでもわるいことでもない、
ニュートラルなことだろう。


でも
「おとなしく言うことを聞く」
「言われたとおりにやる」
ことは教わっても
「(ニュートラルに)言いたいことを言う」
訓練など積んでいないので
「おとなしく言うことを聞く」
だけでガマンにガマンを重ねた結果
文字通りぶち切れるようにしてしか
「言いたいことを言う」
ことができないので
「言いたいことを言う」
イコール
「文句を言う」「キレる」
みたいになってしまうんだろう。


早い段階では単なる
「言いたいこと」
だったのが
がまんをかさねてつもりつもって
結果、荒れ狂ったような
「怒り」
になりはててからでないと表に出てこない
というのは
言う方にとっても言われる方にとっても
不幸なことだ。


受けとる側も
「(ニュートラルな)要望を受けとる」
機会が少ないので
言う側がニュートラルなつもりでも
受けとる側には
「キレられる」
みたいなネガティブなメッセージにしか見えない
という場合もある。
これもまた
悲しいことだと思う。


とはいえ
私は
「怒る」
ことが、
わるいことだ
といいたいわけではない。
「怒る」ことも
喜ぶとか、悲しむとかとおなじくらい
大事なことだと思っている。
もちろん、何でもかんでも怒りまくったり
八つ当たりしたり
怒りの表現が暴力的だったり
もっと別な解決法から逃げるために怒っているだけだったり
というのは
まったく、よくない。
でも
「怒り」
というもの自体を否定する気はない。
仏教では、
「怒り」は悪だったとおもうが
でも
「怒り」は
やっぱり、この世に
「ある」のだ。
自分が正しいから怒る
とかですらないと思う。
怒りと正義をくっつけるのは
結構危険だ。
怒りは純粋に怒りとしてあっていいだろう
(この辺からはむしろ「怒り」という言葉の定義のほうにひろがるので
このへんにしておく)。


自分にとって
「やってもやらなくても同じ」
というようなことは
なにかしら、インセンティブとか
恐怖感、罪悪感などがないと
やることにはならない。


たとえば
近所の人にあいさつをしてもしなくても
別に、文句を言われたりはしないし
防犯上の理由などもあって
特に都会では「挨拶はしない」ひとも少なくない。
でも
会社の上司や学校の先生の挨拶をスルーするのは
こわくてできない、場合が多いだろう。
怖いからやる、
やらないと嫌なことが起こるからやる
という動機付けだ。


もし
そういう
緊張を伴うような切迫した感情に訴えなくても
ある種の「動機」が生まれるものなら・・・
と思うが
そんなのは
ごくごく、難しいことだ。



古代ギリシャ人がイメージした
「世界の終わり」は
現代人が空想するような、
アルマゲドン」や「ディープ・インパクト」みたいなイメージとは
全然違っていたらしい。


すなわち
古代ギリシャ人の考えた「世界の終わり」は
友や親族、人と人とのすべての関わりにおいて
心が通じ合わなくなった世界
なのだ
というようなことを
この本で読んだ。


他者に対して
親密な思いを持って踏み込むことは
どんどん
おそれられ、忌避され、
少なくなっていく。
あるいは
一瞬、それが実現しても
長くは保たれない。


もし古代ギリシャ人が正しいなら
世界の終わりは
そこで待っている
ということなのか。