石井ゆかり@筋トレのブログです。
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「きもちをわかる」ということ


「寂寥」「寂寞」という言葉は
ずっと前から知っているが
その思いがどんな思いなのか
ということは
実際には
よくわかっていなかった。
「よくわかっていなかった」
ということさえ、
わからなかった。




こんな、心にずばんと横穴が空いてしまうような
ふきっさらしの空っぽな冷たい感情が
この世にはあったのだな

この年になるまでわからなかった。
初めてそれを感じたときに
衝撃を受けた。
こんな感情が、この世にはあるんだ
と思った。
これは
孤独とかさびしさとかともまたちがう。
寂寥
寂寞。
寂しいという文字は入っているけれど
「さびしい」とは、明らかに違う。
度合いの違いというのでもない。
憂鬱、みたいなものともちがう。
この空洞のような感覚の恐ろしさはなんだろう。



感情は
食べ物の味と同じで
それを実際に体感するまでは
決して、ほんとうには、わからない。
どんなに説明されても
わかりはしない。



小説を読んだり、映画を見たりして
あるいは、人の体験談などを聞いて
「共感する」
という機能が、
人間には備わっている。
しかし
それは
「自分が経験したことのある感情を呼び覚まして再体験する」
みたいなことでしかなくて
同じ気持ちを感じるということではない。
多かれ少なかれ、ズレがある。
ましてや、
経験したことのない感情を「共感」することはできない。
できたとしても
そこには大きな誤解がある
と言えるかもしれない。


この年になってもまだ
知らなかった感情
というのがあるんだな
と、びっくりする。
学ぶということは
知識や情報を知る
難しい思想や仕組みを理解する
ということだとイメージされることが多いが
喜怒哀楽だって
後天的に学んでいるのだ。
外側から吸収するようなものではなくて
自分の中にあるとき突然それが出現して驚く
ということなんだろうけれども
でも
外界との接触なしに
感情は生まれない。
たとえば、マンガなどではよく
初恋によって恋心という感情を発見し、学ぶ
といったドラマが描かれる。
ああいうことが、現実の人生でも
起こり続けていく。
花の美しさに感動するとか
大切なものを失う悲しみに飲み込まれるとか
そんな新しい感情の体験が連綿と
積み重ねられていく。


私たちは生まれてからずっと
喜怒哀楽を学び続け
新しい感情を学習し
さらにその感情の深まりや複雑さ、微妙さを学んで生きている。
それはいくつになっても続く
ということなのだろうか。


一度学んだはずの感情も
少し時間がたつと
「のど元過ぎれば熱さを忘れる」
となってしまい
共感すらできなくなることもある。
知識も忘れてしまうことがあるが
感情の学習も
忘れられてしまうことは多々、ある。
子供のころの気持ちを忘れてしまって
大人になって、子供とのかかわり方がわからなくなる。
若い頃の気持ちを忘れてしまうので
「今どきの若いものは・・・」と
大人たちは千年も昔から同じことを言い続けている。


「ひとのきもちのわかる人になってほしい」

親になった人たちが子供について言うのを聞くことがある。
しかし
「ひとのきもち」など
ほんとうに、わからないものなのだ。
その証拠に
経験したはずの幼いころの気持ちが
心の中から、消えている。
まだ経験したことのない気持ちだって
たくさんあるだろう。
いくつになっても「未体験の感情」があるなら
一生わからずにおわる気持ちだって、あるかもしれない。
だからこそ余計に
「わかるようになってほしい」
と願いたくなるのかもしれない。
「ひとのきもちのわかる人になる」
というのは
「大芸術家やスポーツ界のヒーローになる」
のと同じかそれ以上に
もしかしたら
難しいことなのかもしれない。