石井ゆかり@筋トレのブログです。
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正義

昨日の日記の続き。



一般に
言葉を間違える人がいたり
言葉を変えられたりすると
「感情」が揺れることがある。
誤用をしている人への怒りや、
誤用へのさげすみの感情が起こる。
でもたとえば
シャツを後ろ前に着ている人がいても
頭にきたりはしない。
(※これは、私がそう思うということではなくて
前の日の日記の内容を受けて書いています。
詳しくはこちらをどうぞ↓
http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20160207/p1 )




言葉の違いで、
なぜ「感情」が揺れるのか。
もっと言えば、なぜ
「義憤」がわいてくるのか。
なんで「あたまにくる」のであろうか。
たぶんすでにたくさんの研究がなされているのかもしれないが
私は勉強していない(すみません)。
以下は
妄想。



古い時代
罪には
「天つ罪」と「国つ罪」があったそうだ。
天、つまり神様の世界にまつわる「罪」と
国、つまり国家にまつわる「罪」とでは
天のほうがより普遍的なものだろう、
と想像してしまうが
実は、
刃傷沙汰や近親相姦などは「国つ罪」で
「天つ罪」は、田畑の地割とか、灌漑に関することなど
ごく実務的なものだったりする。


法で裁かなくとも誰もが非難しそうな罪については
「国」でよかった。
相対的で、あやふやだからこそ破られやすいルールのほうを、
あえて「天」として、
人知を超えた、はるかに畏れ多いものを持ってくることで
しっかり重みづけをした
ということなんだろうか。


こわれやすいものほど
大切に扱われる。
はかないものほど
珍重される。
無視されやすいことほど
大声を上げてしらせる必要がある。
掘り下げていけば根拠などないような「価値」は
幾重にも包み紙に包んで神棚に上げて
それはものすごく貴重なのだと言いまくらなければならない。
たとえば
保険屋さんとか旅行代理店とかに行くと
とにかくたくさん紙をくれるが
それは
売ってるものに「形がない」からだろう。
ないものは
つくらないといけないのだ。


古来
共同体をしっかりおさめ、結びつけておくために
たくさんのルールがとりきめられた。
私たちは何となく結びついている。
その結びつきは、目には見えない。
ただ言葉とかルールとか、
そのほかたくさんの不思議な方法で結束している。
経済的な条件ももちろんそうだし
愛情なんかもその一つだが
何を排除して、なにを守るのか
私たちは本当には、
その境目を意識していないんだろう。


人の体は内外を判断するのに
免疫系という仕組みを使っている
という話を以前読んだが
このしくみ、いかにもややこしいのだ。
一つの境界線があって
「はい、ここからなか!ここからはそとね!」
などという、簡単なもんではないのだ。
免疫のシステムがバグると
いわゆる膠原病のような、
自分で自分を敵と認識して攻撃する状態が生まれることもある。
自分の内部にあるものが
突然、自分自身を外部認定するのだ(※)。


人間の共同体にも
そういうようなことがおこることがある気がする。
ごく乱暴な妄想なのだが
言葉を誤用する人がいると頭にくる
というのは
免疫の仕組みにちょっと似てる気がする。
というのも
「免疫ができると気にならなくなる」
からだ。


たとえば
ら抜き言葉

くさされて久しいが
最近ではあまり突っ込まれることもなくなった。
もちろん、校閲さんにはチェックされるだろうが
口語ではごく一般的に使われていて、
いちいち直されるようなこともほぼない。
また、若いタレントさんなどがテレビで
自分の親のことを「母」とか「父」とか言わずに
「お母さんが作ってくれて・・・・」「お父さんとは仲がいいんです」
などと言うのが、けっこうふつうになってきている気がするが
たいして問題視はされていないようだ。
これも、
受け取り側にそろそろ免疫ができてきちゃった
っていうことなのだろうと思う。


母親のことを他人に対して
「お母さんが・・・」と言うのは恥ずかしいことだ
という感覚は
純粋に「知識」の問題ではないだろう。
テストで間違った答えを書いてバツをもらった
という「恥ずかしさ」とは、ちがう。
これは、立場の問題なので
「失礼だ」みたいなことになる。
礼を失する。
礼儀にもとる。
つまり「義」の問題なのだ。



「正義」っていうのは
もしかして
共同体にとっての免疫系
みたいなもんなのではないか
と想像する。
正義の世界では
正しい人と間違ってる人がいる。
両者の差は、正義の世界では、はっきりしている。
その正義の系から外に出ると
「どっちもどっちだなあ」
という場合でも
正義の系の中では、正しいかマチガイかは
厳然と決まっているのだ。
それが
膠原病のようなものであったとしても。


おたふくかぜとかみずぼうそうなどは
一回やればもうかからない(場合にもよるようだが)。
最初は外部として攻撃して大変なこと(病気)になっても
あとでは「はいはい、知ってる知ってる」というふうに
スルーしてもらえるようになる。
そんなふうに
免疫がどんどん変化するように
正義も、どんどん変化する。
その共同体が「生きている」限り
言葉も道徳もルールも、内外の境界線さえも
どんどん変わっていくのだろう。



「良心」は人の心の中にもともとあるもの
と考えられているが
「正義」は、世の中にあるもので
もともと人のうちがわにあるもの、というのとは
ちょっとちがう。
でも
「間違った言葉づかいをした人に相手のためを思って注意する」
などの義憤は
あきらかに、感情だ。
「正義」は純粋な「ルール」とは、そこがすこし違っている。
人のナマな感情に直結している。


正義。
ちょっと考えただけなら
論理的・合理的なきまりごとであるはずなのに
その動きをみていくと
人の感情や美意識そのもの、みたいなものなのだ。
とてもふしぎなものだなあと思う。




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