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石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

織る、染める


吉田さんの個展に行ってきた。
http://ysdaki.exblog.jp/21742970/
京都では23日まで。東京では11/26から。


インド更紗の工場、真っ赤な布が印象的な作品群。
展示の工夫も、
「布」の感触をめいっぱい表現してあった。
ミシンで縫った縫い目が
機械なのに手の作業の匂いを含んで、たかたかしていた。
小さい頃、カーテンで遊んだようなあの、
ひらひらと大きな布に触れるたのしさを思い出した。


そして、当の吉田さんは今、パリにいる。

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「仕事」は美しい
という吉田さんの言葉は
あくまで、写真を見ながら聞いて、
そこではじめて、意味を持つ。
真意がわかる。


仕事をする美しい肌、身体、筋肉や汗や表情は
私の知らない誰かのそれだ。
ここに映っている人に、会場を出た瞬間、偶然出くわしたとしても
私には「あ、あのひとだ!」というふうには、
わからないだろう。
匿名なのだ。


被写体となった職人さんのひとりに
吉田さんが
「仕事は楽しいですか?」
と聞くと、
たのしいかどうかなど、かんがえたことはない、
神(天)が自分にあたえたものだから
というような答えが返ってきたのだそうだ(正確には、ギャラリーでどうぞ)。



天から見た自分
というイメージは
個人だけれども
限りない「人間」というものの海の一滴に過ぎない。
ほかのひとしずく
たいしてかわりはない。


労働するとき
「自分」はいったん、労働の中に溶けだしてしまう。
なまえやかたちのないものになる。
そして、そこからあらためて
「自分」が再定義されるように
ゆらりとたちあがる。




「労働は美しい」
ということばは
わたしにはすこし、受け止めづらいところもある。
生まれた時からの病で
思うように働けずに暮らした人を
身近に、知っている。
この言葉を聞くと、心の片隅がぎくっとして
「あの人を前にしたら、そうは言えない」
と思ってしまう。
もちろん
「労働は美しい」
といったとき

「労働していない人は醜い」
ということにはならない。
が、
働きたくても働けない人もいる。
そういう人の心が
「労働は美しい」
という言葉に
痛みを感じる可能性はあるだろう。



しかし、
よく考えると
べつのことが思い浮かぶ。
実際
その人は自分なりのやり方で
かぎりなく自分を他者に与えようとしていたひとだった。
お見舞いに行くと、死ぬ間際まで、
「最近、なにかおもしろいことあった?」
と聞いてくれた。
身体に水が溜まって、苦しくて仕方が無いのに
私の馬鹿話で、笑ってくれた。
楽しくしようとして。



仕事が
「たのしいかどうかは考えたことがない、
天が与えたものだから」
という感じは、納得できるところがある。
「働くのが楽しくて仕方がない」という人もいるだろうし
「苦しくてしかたがないけど、やりがいはある」という人もいるだろう。
「苦しいのが八割、楽しいのが一割、残り一割は惰性」みたいな人もいるかもしれない。
楽しいからやっているのではなく
仕事という形になったから、やっている。
ただ自分でやりたいと思うことをやっても
世の中が受け入れてくれなければ、それは「仕事」にはならない。
ある職種に憧れて、がんばってそれを目指しても
なれるとはかぎらない。
めでたくその職を得たとしても
やってみて向いていない場合もある。
そのときは、辞めて他を探すしかない。
20代から30代前半くらいは、
半年ごとに履歴書を書いていたような状態だった私には
天が自分に仕事をあたえている
という感覚は
すごくよくわかる(涙)。



病もまた
天が与えたもの
としかいいようがない。
天が与えたものがあって、
自らそれを受けとって
そこで、自分が誰かにあたえられるものがある。
それをごくごく広い意味で
「仕事」「労働」
といえるならば
病に倒れても自分を誰かに与えようとしつづけたその人もまた、
美しい労働をしたひと
と言えるだろう。


亡くなった今も、その人が「あたえた」ものが
目に見えない形で、私や身近な人の中に、生きている。



たぶん
生きているだけでも
生きていた、ということだけでも
誰かによろこびや、意味のある時間を与えることもあるだろう。
自分の無力を嘆く人は多いし
私自身、そういう気持ちになることはたくさんあるけれど
「労働」というものは
もっとずっと意味の広いものなのかもしれない。
ただ動くなら、動物でもできる。
人が動くと書いて、「働」になる。
人偏はこの場合、
「人間の集団」や「人間社会」のことなんだろう。
心臓が動いているだけで
「誰かのために」
なっていることも、あるんだろう。