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石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

待ち合わせ


ミシマガジンの「闇鍋インタビュー」が終了して早半年。
もうすでに懐かしいような感じがしているが
シリーズ第12回の「中川さん編」で
ひとつ、約束(?)していたことがある。


中川さん編↓
http://www.mishimaga.com/yaminabe/038.html
http://www.mishimaga.com/yaminabe/039.html
http://www.mishimaga.com/yaminabe/040.html


文中にはないのだが、
「ぜひ、お寺に、来てください」
と言っていただいて
「いきます!」
と言ったのだった。




中川さんは、イラストレーターであり、
お寺のご住職でもある。
お寺は「瑞泉寺」。
場所は三条木屋町、街中も街中である。


お話を聞いたときは、正直
「そんなとこにお寺があったっけ?」
と思った。
あそこにあるのは長浜ラーメンではなかったか。。


奇しくも(?)第1回目のエレファントファクトリーコーヒーに立ち寄っ(そして満席で撃沈し)たあと、
歩いてお寺まで向かった。
しかし
どこにお寺の入り口があるのだろう・・・
鴨川の方にぐるっとまわったりしてひとしきり迷子になったのは
「そんな所にお寺の入り口はない」
という先入観からだった。



あるじゃないか(右の赤い提灯がラーメン屋さん)。




そうだ、お寺だ。


この角は学生時代から何度となく通っており、
待ち合わせにも使ったことがあるというのに
ここにお寺がある事に気づいていなかった・・・なんて・・・
私の知覚は
まったくアテにならない。


瑞泉寺
豊臣秀次公ご一族の菩提寺
である。
豊臣秀次とは、
秀吉の甥で、その名の通り一度は後継者として指名されたのに、
罪を着せられて突然、一族もろとも皆殺しにされてしまった
という、悲劇の人である。
瑞泉寺には、秀次と、たくさんの妻妾、そして子どもたちがまつられている。


お寺に足を踏み入れると
本堂の前庭に、供養のお堂と、墓所がある。
その圧倒的な数と「近さ」に驚かされる。
京都の町屋の密度そのままに、
悲劇が、肌に触れそうに近い場所で、
深く、長く、静かに悼まれている。


秀次処刑の経緯については、まだまだわからないことが多く、
「謎」と言っていいらしい。
この「謎」について、お寺の一角に詳しく資料が掲示されていて
これを眺めるだけでも、ドキュメンタリーを見ているようで興味深い。
中川さんが言うところの「うちのお姫様」(インタビュー参照)たちの、
辞世の歌もいくつか掲示されている。
仏の教えに従うのでやすらかだ、という思いをつづったもの、
火宅から出るのはせいせいする、というような意味合いのもの、
罪無くして処刑されるのだから、なんの恥じるところもない、とするもの。
どれも胸にずしんと重い。


きっぱりと、あるいは穏やかに悟りすました歌のしらべを、
そのまま、額面通りに受けとってしまうこともできる。
でも、
その「向こう側」に、
激しい感情が透けて見える気もするのだ。
「ほとけのもとにいくのだから、やすらかだ」
というのは、
死を前にして激しく恐怖する自分の心を、
なんとかなだめたい、という気持ちだったのではないか。
炎に苛まれるように心安らがぬすみかを出て行くのだからせいせいする、
というような意味合いの歌には、
文字通り、炎のように熱い怒りが込められているのではないか。
罪無くして処刑される、ということをうたったものは、
無実の罪の理不尽をうったえ、
処刑者へ異議を申し立てたい意志が感じられる。


怒り、恐怖、信念、信仰心、やさしさ、悲しみ。
無実の罪で処刑される、という一つの悲劇の中にあって、
女性たちひとりひとりの個性がきわだって見える。
読めば読むほど
三十一文字の、ほんのひとことから、
「その向こう側にある、一人の人間としてのリアルな感情」が
びりびりと輝き出しているような気がした。


言葉は、「伝える」ためのものだ。
だから、その向こう側に何があるのかということは
発信者の側からすると、本来は
大事ではない。
なにかをかくすためでなく
なにかをあらわすために
言葉はもちいられるべきだからだ。


でも
言葉の受取手にとっては
かならずしもそうではない。
ことばの向こう側にあるものこそが
真に受けとりたいものだった
という場合もある。


「大丈夫」
という言葉が
「辛い気持ちをどうにか落ち着けようとしている」
という思いから出ていることもある。
言葉を発した人は、相手を安心させたくて
「大丈夫」と言う。
でも、その言葉を受けとる人がもし、
「自分が安心したい」のではなく
本当にその人のことを思っていたら
「辛い気持ちを落ち着けようとしている」状況の方を
受けとりたいと考えるだろう。


発信する人が「伝えたいこと」と
受信する人が「受けとりたいこと」が
ちがっている。
言葉を発する側と
言葉を受けとる側との間には
そんなふうに
ひとつの断絶がある。


でも
言葉自体が
その断絶を越えさせてくれることも、マレにある

心のどこかで信じているところも
自分の中に
あるんじゃないかな、と思った。


奇跡のように
そういうことがおこることも
この世のどこかでは、ある
のかもしれない
というくらいのことなんだけど。