石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

とおりすがる

昨日、所用で人混みの中を歩いていたら
前方からきた若いカップルの会話の一片が、
すれちがいざまに耳に入った。



「俺、ボウリングのボールになりたいんだよね」


…ちょっと待て
とって返して詳しい話を聞きたい
という気になった(ムリだけど


いったい、彼に何があったのだろう。。。


たぶん
たくさんならんだピン(彼にとっていろいろうざいもろもろのこと)を
ゴロゴロゴロゴロ……
パーン!!!!!
という具合に
圧倒的なパワーで蹴散らかしたかったのかもしれない。



「犬も歩けば棒に当たる」と言うが
外に出ると、「なにか」はあるんだな…

ヒキコモリがちな生活を反省した。

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北書店の佐藤さんのブログに
不忍ブックストリートのイベントの話がアップされた。
そこでなぜか
私のずっと以前のメールが
「大トリ」になっていた(爆

http://kitashoten.blogspot.jp/2014/05/blog-post_4.html


ここでも何度か書いているとおり
私は子供の頃から引っ越しがちで
1つの家に最長6年しか住んだことがない。
ゆえに「地元」と言える世界がほぼ、ないのだが
自分なりにひとまとまりの「生きている世界」のイメージがあって、
それは距離を超えて、私の中だけで
細い糸で結びつけられている。


私みたいなのは、マジョリティではないと思うが
交通機関やメディアが発達し、市場経済が支配的になった結果、
昔に比べて、私たちの生活はずっと、流動的になっている。
多くの人が、その人生の中で、いくつかの土地に住む。
かつては「この村や町から一生一歩も出ないで終わる」ということが
めずらしくなかったわけだ。
それが、現在では
一生、1つの場所だけに生きる
という人は、少なくなっているだろう。
「街」は、人でできている。
「街の本屋」という表現は、
「街」の人々がかつてほど固定的でなくなっていることにより
その内容を刻々と変えているだろう。

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あとこれ
https://futureship.sec.tsukuba.ac.jp/crew/0308.html
すごくおもしろかった。。。(汗


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福田春美さんのブログより、
愛媛•松山にて地産地消デリカテッセン「ヨーヨーキッチン!」
のできるまで。
http://www.hamiru.com/blog/2014/04/
行ってみたい!
のRTをしたら、
こんなツイートを頂いて、びっくりした。うれしい。
https://twitter.com/iori_imabari/status/462155804733235201



あと、http://www.hamiru.com/blog/2014/04/ の下の方に、
浅田真央選手のコスチューム制作現場の写真が(!)

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現在発売中の「with」6月号に、コラムを寄稿した。
http://withonline.jp/magazine_with/
「ずっと愛される女」という難しいテーマを振られたのが
withの読者アンケートに、その答えが既に出ていたので
読者はすでに、わかってるんだよな・・・
とおもった、という話を書いた。


みんな、ほんとうは、わかっているのだ。


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マイロハスで、こんど、コラムの連載がはじまる。
http://www.mylohas.net


THREE TREE JOURNALでも、コラムを書き始めた。
http://tree.threecosmetics.com/2014/03/the-portrait-of-heroines-01/


コラムのお仕事は、編集者さんとか、編集部さんとかに
最初に、ある種の問題意識とか、興味関心とかがあって
それを投げられて返す、
どこか受動的なところがある。
いわば「卒意」の仕事だなあ、と思う。


あるひとによれば、
書道の「書」には、
「刻意」のものと「卒意」のものがある。
刻意の書とは、いわゆる「揮毫」のようなもので、
展覧会に出品する作品などもそうだ。
一方「卒意」の書は、
手紙などの、実用的な文章、折に触れた文章を書いたものを言うらしい。
こちらは「相手」がある。
日常や人生に起こる様々な縁に「反応」して発生したような書だ。


また、「卒意」は、
「用意」と対置されることもある。
お茶の席などで
「用意」は主人がお客を能動的にもてなすこころもち、
「卒意」はもてなしを受けるときのこころもちを言うらしい。
自分は受け手であっても、
たんに受け身に、漫然として、消極的であるわけにはいかない。
それでは「客」をやっていることにならない。
あくまで受け手として、積極性をもってその時空にコミットしなければならない。
その「時空にコミットする意志」を、「卒意」というのだろう。


受け手としての積極性が「卒意」なのだろう。
コラムを書くときは、いつもそういう気分が私の中にあって
半ば運ばれていくような
半ば運んでいくような、
そういう感覚が、産みの苦しみの中にも、楽しい。