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石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

反省文(か?)


今日配信された
鏡リュウジさんのメールマガジン「プラネタリー夜話」
このツイートがもとになったお話が書かれていた。
https://twitter.com/Kagami_Ryuji/status/415685116954812416
メルマガではもっとくわしく説明されているので、ご一読を。)


読んでからふと
このエントリを叱られたような気が(勝手に)した(汗
(※上記ツイートは12/24で、例のエントリは12/26です。あくまで、勝手に思っただけです。)



自分がどういうことを言いたかったのか
改めてよく考えてみた。



まず、
「なんで日本では(他の国でもそういうことはあるのかもしれないけど)
クリスマスを祝ったあとに神社とお寺にお参りに行き、
バレンタインを祝い、結婚式は教会で挙げ、葬式はお寺でやり、
近所のお地蔵様にも手をあわす、
みたいなことができるんだろう?」
ということを考えたのだ。


それはたぶん
あんまり厳密に「聖なるもの」を区別してしまわないところがあるからかも。
それが、冠詞や数詞に頓着しないという言語とも関係があったりして。
というふうに考えて、
あのエントリを書いた。
自分では「信仰心はない」とか言いつつ
しっかり宗教的な行事を大変盛り上がってやっているというのは
もしかして、そういうことなんだろうとおもった。
自分の中では
クリスマスツリーと鏡餅
それほど「矛盾している」と思えたことはないし
どうも
みんな矛盾をかんじていないよなあ
と思った。
そういうことを書いた。


でも
それと
「どの宗教も仕組みは同じで、神は一つだ」
という話は
また別だ。


「あまり区別しないで受け入れてイベントをやってしまう、そういう(独自の)世界観がある」
ということと
「そこに区別はない」
ということは
別のことだ。



たとえば。
宗教学という学問に対して、
宗教者からの、一つの根源的な批判がある。
平たく言うと
宗教とは、言葉で記述できるようなものではなく
それを生きることによってしか
ほんとうの意味ではわからないものなのだ
というようなことだ。
科学は、現象や存在を言葉で記述する。
宗教はそもそも、その範疇にない。


鏡さんのメルマガにはこうある。
「…マンダラを想定している人はどこの立場に立つのでしょうか。
システムの中の部分はけしてシステム全体を構想することはできません。
にもかかわらず、これがシステムだ、と提示すること自体に
恐るべき危険がひそんでいるというわけです。」



日本では
初詣にお参りに行き、
クリスマスを祝う人のほとんどが
「『信仰』はとくにもっていない」と言う。
でもお守りは大事に持っていたりする。
こういう態度は、
たとえばクリスチャンとしてずっと生きている人からすると
「理解できない」だろう。
クリスマスのお祝いにしたって
クリスチャンではない人々の祝い方を見たら
「なんかちがう」「誤解されている」
感じがするはずだ。
逆もまた然りで、
いろいろな祭儀を楽しんで「信仰はとくにない」と言って生きている人には、
敬虔な信仰を生きる人たちの世界は、本当には「理解できない」。


それは、合理的でないとか、
リクツに合わないという意味での
「理解できない」ではなく、
もっと本質的な体験や世界観のことだ。
たとえば仮に、同じ信仰を持っていない相手が
「貴方の信仰心のありかたはよく解りますよ」と言ったとしても
決して「本当に解ってくれている」とは、思えないだろう。



私は「西洋占星術」の本を読み、そのしくみに興味を持ち
そこから、占いの記事を書いている。
けれど「西洋占星術」は、その名の通り
「西洋」の哲学や宗教と切っても切れない関係にある。
そういうものは
私には、「ほんとうに」は理解はできない。
百歩譲って解釈や表現はある程度できたとしても、
最終的には
言葉で切り分けてアタマで解ってどうこうできるものではないからだ。



私が生きている現代日本の世界観とか、
私が個人として持っているバックグラウンドとか
そういうものと、私の占いは
切り離すことができない。
私はそれを「生きてしまって」いて
その外側に出ることは
どんなにがんばっても、できない。
酸素を吸わないで生きられるか、というようなものだ。
それは、誰がやってもそうなるしかないだろう。
「理解できない」というのはそういうことだ。


でも私たちはなぜか
「自分たちが生きる世界の外に出てみたい」
と思うことがある。
自分が生きている世界とはちがう世界に惹きつけられ
勉強したり旅をしたりする。
もしかすると
本当には「理解できない」からこそ
魅力を感じるのかもしれない。
そしてときには
突然その中に入って
「理解してしまう」
こともあるのかもしれない。
外からではなく
その「中」で。
そうなってしまったらもう
それまでのその人とはちがってしまっている。



鏡さんが書かれていることと
上記はズレてるかもしれない。
とはいえ、
話を元に戻すと
「みんな本質的には同じなんですよ」
的な大それた普遍的なことを言いたかったわけではなくて
単に
「ごたまぜに色々やってしまえる自分ら固有の世界観がわりと好き」
程度の、限定された世界のことを言いたかっただけだった。
でも、
前者にもとれる表現になってたかもしれない
と思った。


(勝手に)反省した。


メルマガの終わり近くに、鏡さんはこう書かれている。
「現象の個別性、多様性、体験の主観性。
それをあくまでも大事にしていくこと、
そしてそうしたものを大切にしようとして、
象徴体系が生れてきたのだということをぼくたちは忘れてはなりません。」