石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

正常化。


皆さん、クリスマスのコメントたくさん
ありがとうございます!!
うれしかったです!

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「禅語」「親鸞」などという本を書いといて
クリスマスとバレンタインだけ仕様が変わるブログ(爆


日本人がいろんな神様に頭を垂れ、隔てなくお祝いするのは
たぶん
一神教というかたちとは全く違った意味で
「神様は、ひとつだろうな」
と思ってるからなんじゃないだろうか。


たとえば
英語などの言語では
ねこ

「a cat」「the cat」「cats」など
かならず、数詞や「それ」と指さすような冠詞がつく。
でも、日本語はそうじゃない。
私たちは
「あ、ねこがいる」
と言うとき
一匹でも三匹でも、黒猫でも三毛猫でも、
心の中ではべつに
あまり大きな差を感じていない。
はっきりいって、
そんなのはどうでもいい。
一匹でも三匹でも
そこに「ねこなるもの」がある。
それが特別で、おもしろく、すばらしい。
場合によっては
「そこに、ねこがいたんだよ…」
と言ったとき
それは生きてるねこではなくて、幽霊とか、ねこまたみたいなものであってもいい感じすらある。
春は一枝の内にある。
あるいは、満天を埋め尽くす桜の絢爛にある。
どっちでもいい。花はどちらも「花」だ。
そしてそこに、「春」がある。
そういう心の中の世界観があるんだとおもう。


神様のことも
なんか
それに似てる気がする。
八百万
といったってべつに
8000000人の神様がいるわけじゃなくて
聖なるもの、神的なもの、ということが
数詞のつかない、1でも多でもない普遍的な、
おおいなるひとつのなにごとかとして絶対的に存在する
という
そういうイメージなんだろう。



「何か聖なる、神なるものがどこかにある」
というふうに、数詞や冠詞のつかない形で
1でもあり、多でもありうる、という形でとらえているのではないか。
これは、曖昧だとか漠然としているとかいうこととは、ちょっと違っている。
それは
言語によって虹は七色だったり五色だったり2色だったり(!)するのと
同じようなことだろう。


「未来永劫」みたいに
仏教の言葉には、ものすごく大きな数字の単位が出てくる。
なにかがものすごく大きいと
それを、小さな数に分けようという思いが薄れる。
海を滴の数で数えたいとは思えなくなる。
海は一つの海で
何リットルとか、そういうことではもはや、ない。
「永遠」は「一瞬」と変わらなくなる。
何もかもが詰め込まれたような特別な瞬間は
永遠にその価値を失わずに生きられ、続いていく。



クリスマスツリーを片付けたあと同じ場所に鏡餅を置いて
いろんな縁起物や、お掃除や、松飾りや若水や初詣や
あらゆるところに聖なるものが棲んでいるのをみつけて
それらとどこか、あそびたわむれるようにして
心の中でひそかに祈りを捧げる、
この冬の時期が私は
けっこう好きだ。


遠い場所にある聖なるものに語りかける、郵便ポストみたいなものが
クリスマスツリーだったり、鏡餅だったりするんだろう。
メッセージカードや年賀状も
そんな「聖なる」匂いをまとっている気がする。