石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

天と地


太陽の周りを地球が回っているのが「地動説」で
地球の周りを太陽が回っているのが「天動説」だ。
とはいえ
どっちの説に立とうとも
太陽や星の「見え方」がかわるわけではない。
私たちの生活の中では、あくまで
太陽は東から昇って西に沈む。



「自己肯定感」という言葉が
最近、けっこう一般的になってきている気がする。
自分が「ここにいてもいいのだ」と思える、そういう感覚が
生きる前提となっているかいないかで
生き方がずいぶん違ってしまう、というようなことだろう。
「自己肯定感」がないと、
「自分はここにいてはいけないのではないか?」
という疑念を常に感じてしまい
身の置き所がないような不安感を耐えず、味わうことになる。


自分はここにいてはいけないのではないか
自分などはぜんぜん重要でも大事でもない
と感じていると
他者にとってもそうだろう
と思える。
だから簡単に自分を立ち去らせたり、姿を見えなくしたりすることになる。


たとえば
Aさんというひとと
Bさんというひとがいたとして
Aさんは自己肯定感があるが
Bさんは自己肯定感を持っていないひとだったとする。
Bさんは「自分なんか、誰にとっても大事な存在ではない」と思っているので
Aさんの前にいてジャマだと思われたくない、嫌われたくない、
などと思ったりすると
Aさんのまえから突然立ち去ったり、連絡を怠ったりする。
このとき、Aさんはどう思うだろうか。
「Bさんはきまぐれな、変な人だなあ」と思うだろうか。
むしろ
「私はBさんからないがしろにされている、憎まれている」
と感じるかもしれない。
天動説と地動説のような「認識のズレ」の作用で
Bさんは「自分は嫌われていて、ジャマなのだ」と感じるし
Aさんは「Bさんに拒否された」と感じることになる。
これは、きわめてやっかいな状況だ。


BさんはAさんが嫌いなわけではなく
むしろ、好かれたいとさえ思っていたりする。
でも、好かれるわけがない、と思い込んでいるので
自分の中にある「好かれたい」という思いにさえ、
気がついていなかったりする。
一方、Aさんから見ると
Bさんは自分から遠ざかっていく。
遠ざかっていく人間の心も当然、自分から遠ざかっているようにしか見えない。
自分から誰かの心が遠ざかるのを感じたら
誰だって悲しい、辛い思いをするだろう。
誰だって嫌われるのはいやなものだ。
でも、Bさんはそのことにも、なぜか気づかない。
誰彼の区別なく「そこにいてはいけない」という目に見えないメッセージを
世界中から受けとるような現象が「自己肯定感がない」という状態だからだ。
でも、自己肯定感があるひとであってもべつに
のべつまくなしにだれかから「そこにいてもいいよ」と言ってもらっているわけではない。
そう思えるかどうか、ということでしかない。
どちらも幻想なのには違いがない。


「自分を愛せよ」というようなメッセージを見ると
私はあまり、素直に「賛成!」とおもえない。
自己肯定感のなさにも色々深度があると思うが
それ自体を罰したり否定したりする権利が
だれにあろうか、と思う。


もちろん、「自己肯定感を手に入れたい」と思っている人は、
そっちにむかって全力ですすむといいと思う。
自己肯定感を持っている人は、人を幸せにすることができる。
ばかばかしいことに傷つかないでいられるし、
本当に大切なものを見失わずに生きていける。
でも、だからといって、即
自己肯定感を持てない人に向かって
「自分を愛しなさい、そのほうが得だし、ラクだし、幸せだよ」
と言うべきかというと、そうでもないだろうと思う。
だれもが「得で、ラクで、幸せ」を好むわけではない。
合理性だけを求めて、人間は生きているわけではない。
大勢の人が好むものを「私は大嫌い」というマイノリティが、ちゃんといるのだ。
そうした少数派が、数が少ないというだけで裁かれなければならないいわれはない。
人間は、感情の物語を生きている。
深海魚に
「地上に出てごらん、光溢れる場所で、幸せに生きられるよ!」
と陸に引っ張りあげて殺してしまうのは、愚かなことだろう。
自己肯定感がもてないひとはたいてい
他人には理解しがたい、深い傷を負っている。
あるいは、巨大な土管のような穴を抱えている。
それはまぎれもない「自分自身」でもある。
変な話、それが自分というものを
守ったり支えたりしている場合さえある。
そういう「傷」や「穴」を、
消しゴムで消すように消せるとおもったら
それは、まちがいだろう。



でも
先のAさんとBさんのたとえばなしのようなシチュエーションで
天動説と地動説の差に気づかないがゆえに苦しんでいる人、というのを
たまにみかける。
そのことに気づいたら、もう少し
この人の悩みは少なくなるんだろうな、と思うことがある。
自分を肯定できないのをひっくり返す!というほどのことまでしなくても
けっこう、解消できることもあるような気がする。
そこには、何が良くて何が悪いか、というような「価値」は介在しない。
相手の認識と自分の認識のあいだの「差」を発見するだけでいい。
自分が相手の目からどう見えているか、というのは
ほんとうにわからないものだ。
でも
自分が自分自身を軽んじて遠ざかったことを相手がどう受けとめたか、という点は
考慮する余地がある。


愛せないものを愛さなければ絶対に解決しないことがある
なんて
そう言い切れたものでもないと思うのだ。
自己肯定感がないからうまくいかない、という状況があったとしても
その答えが「では、自己肯定感を持ちましょう!」と即、なるかというと
そうもいかないんじゃないだろうか。
お見合いの相手をどうしても好きになれないことがあるのとおなじで
自分をどうしても好きになれないってこともあっていいだろう。
それを「ムリして好きになって結婚しろ」なんて、不当な強要である。


でも
いやな隣人とどうにかうまく近所づきあいをする、レベルで
好きになれなくてもうまくつきあっていくことはできる。
「このひとはこういうひとだから」
って解っていれば
それなりに対処できる。
「自分はこういう人間だから、こういうときはこう対処しよう」
みたいに、
「嫌い」を「好き」に変えることなしにでも
なんとかやっていく
ことは、できるんじゃないだろうか。


もしそれができるとすれば
自己肯定感がない状態で、相手の心を慮ることができるとするならば
それは、ものすごく愛情深い行為だと思う。