石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

近況


なんだかバタバタして
日記が「お知らせ」ばっかりになってしまった。。

久々に
ちょっと日記っぽい近況を書くことにする。




先々週、吉田さんのとこに行ってきた。
髪の毛が「もわっ」となってきたからである。
前回ちょっと短くしてもらったのだが
そろそろ日焼けの季節でもあり
首を守ってもらわなければならないので
伸びたところの長さそのままにやっていただいた。


吉田さんは以前から講師として各地で美容師さんの指導をしていて
私も一度、講習会で
縮毛矯正のモデル(顔や躰は関係ない。縮れ毛がひどい、という意味でのモデル)を
やらせてもらったことがある。
あんなに何十人もの人に見られたり、頭を触られたりしているのに
爆睡できる自分が怖かった(爆
その様子は、以前連載をしていたマルセルに書いた。


これまでは、技術の講習なので、実演に説明を加える形のものがほとんどだったのだが
このところ、経営者向けの、実演なしの講義をすることが増えたらしい。

「ゆかりさんは、レクチャーの時って、原稿とか準備します?」
みたいな話になった。
するする。
配付資料もさることながら
自分でしゃべることを、前日か当日開始前に
紙に必ず手書きで書く。
それも、あらすじを箇条書き、とかではない。
「皆さんこんにちは!今日は母の日なのにお集まり頂き、ありがとうございます!」
とかを本気で書くのである(爆


その通りに読むワケでは無い。
しゃべるときはほとんど見ないでしゃべるんだけど
あれが無いと不安でだめなんです
といったら
吉田さんが
「わかるわかる」
といったので
なんか、みんなそんな感じなのかな…

妙に安心した(なんでだ


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昨日は
ミシマ社さんのオフィスにお邪魔した。
歩いて数分の近所だということが判明して
「奇遇ですね!」
みたくなった。


ミシマ社さんには、以前、ミシマガジンでインタビューして頂き、
お世話になった。
あと、最近では「仕事のお守り」という本で
このブログの記事から、一節引用して頂いたりしている。
(有名人みなさんの仕事にまつわる名言などをあつめた本だが、
私のくだりのとなりはなんとあの吉本ばななさんであった。大丈夫か。)
ちなみに、どの記事を使って頂いたかというと
去年の秋に書いた、動物モノである。


とはいえ、社長の三島さんとまともに話しをするのは初めてであった。
ミシマガジンの運営をサポーター制にして、
「贈与によって全てを回すことを試みる」
というハナシをうかがった。
それは、私が10年以上かけて考え続けている「筋トレ」の運営のありかたと
よく似ていた。
私の場合は、最初は
「週報と年報その他は無料でいいです、ただ、下半期だけ有料でお願いします!」
みたいな考え方だった。
それが、セブンイレブンまぐまぐ!のオンデマンドになったりして
今では、いろんな本が出て、モバイルコンテンツがあって、
そういうものを買って頂くことで、
「筋トレ」を無料で運営でき、私も生活できている。


でも、それは私「個人」の活動である。
それが「出版社」や「ミシマガジン」のレベルで行われるっていうのは
どう考えればいいんだろう???
と思ったのだが
こういうことがある。


昨日、ある方から、雑誌への寄稿の依頼を頂いたのだ。
「240文字程度でコメントをお願いします、
もし書いて頂くのが難しければ、お話しして頂ければ私の方で編集します」
ということだった。

そのテーマについて書きたいことは240文字とかそういうレベルではなかったので
メールを読んで即着手し、書いてみたら1700文字を超えていた。
「話してくれればまとめる、って言ってたし、
これを私の語りとおもってもらって、へんしゅうしてもらっちゃえ」
とそのまま送信したが
翌朝、
「それはあんまりだろう」
と反省し
240文字で書き直して再送した。


しかし
その再送メールにはなぜか、間違ってもとの1700文字のやつを添付してしまい
「あの…もとのファイル貼ってません?」
と突っ込まれた。
どんだけその原稿が好きなんだ、自分。


これに似た現象はけっこうある。
以前フィガロで書かせて頂いた「悪党の活力」のコラムとか、
フラウで書かせて頂いた恋愛特集の巻頭コラムとか、
ああいうのは、アウトラインをご依頼頂いた瞬間
「あ、これ書きたい」
となるので、
「書くか、書かないか」を回答する前に原稿を書いて、送りつけてしまう。
分量も何もない。
ひどい。ぜんぜん「仕事」してない。それでも社会人か。
自分でもそのことは自覚しているのだが、
でもそうなってしまう。
結果、採用されることもあれば、あっさりボツになることもある。


これは、編集者さんの力だと思う。
いいテーマを投げてもらうと、
そこに大きな魚が突如現れたようなかんじになり、
慌てて釣り上げなければならない。
一方、フィットしないテーマだと、
たぶんどんなに時間をかけても書くことができないので
お断りするしかない。
それを諸事情あってムリして書いても、あまりいいものにはならない。


出版社さん・編集者さんがいいパスを回したからこそ、
著者は、うまくシュートをゴールに入れられるのではなかろうか。
私が、書くか書かないかを回答する前に原稿を書いてしまうときは
使えなかったらそれまで、である。
当然、ボツになる可能性がある。
過去、ボツになったやつもいろいろある。
それはつまり、
タダで働いて、なんにもならない
ということである。
それでも、かまわない
と思えるテーマが、存在するわけだ。


タダで働いても構わない
という状況は
あくまでほかのことで食べていられるならば、
こういう商売(無から有みたいなものを生み出すこと)に限っては
あり得ないことでもないのである。
というか
「働いている」
というのがおかしいのだ。
世に言う「ブラック企業」が批判されるところの「労働」と比べると
我々のは、「働いてる」どころではなく
ほとんどあそんでるみたいなところがある。


最近、ネットでこんな記事を読んだ。
http://nemuru-jaggjagg.tumblr.com/post/51274323591
この話の「本社の重役」は
編集者さんや出版社さんみたいな感じだな
と思った。


ここでエリート達を遊ばせているのは「会社」だが
音楽でもアートでも文学でもなんでも、
それを創造する人たちを「あそばせて」いるのは
ファンや、愛好家や、コレクターや、読者なのだ。
私自身、1読者として、1リスナーとして、
あれやこれやに散財しているのは
そういうことなんだろう。


2006年に、私はこんな記事を書いた。
http://st.sakura.ne.jp/~iyukari/hat2.html
執筆者個人ではなく、
作品を集める「場」としてのミシマガジンがそういうことをしてる
というのは
もっと力があっておもしろい事なのかも!
と思った。


ミシマガジンはWebだが、サポーターは毎月、紙にまとめたマガジンを受けとる。
このマガジンを印刷する印刷所もまた
「タダでやってくれている」
というのに驚いた。
「え、だってそれはどうやってやったんですか?
まさか出し抜けに行って
『ぜんぶ贈与でまわすのでタダで印刷して下さい』って言ったわけじゃないですよね」
と聞いたら
「いや、そんなかんじです」
ということだったので、心底驚いた。
その印刷会社の社長さんは面白い人で、
話をしたら興味を持ってくれて、
「タダでやりましょう」と言ってくれたのだという。
「お金をもらった仕事ではちょっとできないようなことをやりたい、
活版とか使ってみたい」
そんな話になったのだという。


お金をもらった仕事では、できないこと。
お金をもらわなくても、やってみたいこと。
これは「タダ働き」ではない。
最終的には、エリート四人が造り出した「ゲーム」が収益に結びついたように、
いつか報酬が送られてくる。
その流れをどうやってつくるか、
10年経ってもまだ、こういう感じだ。
でも、ミシマガジンがやっていることはわかる。
私と違うのは、
ミシマガジンが「これいいですよ!おもしろいですよ!価値がありますよ!」と言えている、ということだ。
私の場合は
もうすこし、うじうじいじいじしている(爆)
もとい
これは性格の問題で
システムの問題ではないような気がする。 orz


お金をもらった仕事では書けないこと


つらつらと考えている。


…1日10分くらいです(大丈夫です仕事します



思えば
吉田さんの「講習会」にせよ
なにももらわない、単なる個人のブログから始まったのだそうだ。
技術や経営に関する考え方を綴った吉田さんのブログを読んだ方が、
彼を招聘して、全国ツアーにまわる(!)ほどになった。


ある、知り合いの作家さんは
「お金もらわないで原稿書くとかは考えられないです」
と言っていた。
彼女はお金にこだわっているのではない。
むしろ、驚くほど少ない報酬の仕事でも承けている。
彼女がこだわっているのは
たぶん、責任や義務といった、道徳的とも言える「姿勢」の問題だろう。
いろんなありかたがあっていいと思う。
たぶん「正解」はない。


私がこういうふうにしていられることについて
うらやましい、といわれることもある。
たしかに、恵まれていて、幸せなことだと思う。
もちろん、辛い苦しいときもあるし、
あきらめたこともいろいろあるし、
他人を羨むことも多々ある。
でも、結局は、恵まれているのだと思う。
ありがたい、のひとことにつきる。


恵まれていることは、こわいことでもある。
いつそれが失われるか、わからないからだ。
ゆえに、恵まれることを無意識に拒否する人もいる。
私もかつて、それをやったことがある。
でも、それをやってもべつに
ちっともいいことにはならない、
ということも学んだ。


恵まれることも、奪われることも、
自分の力では、どうにもならないものだという気がする。
小学2年生の頃、
太陽がいつかは大きくふくらんで地球を飲み込んでしまう、という話を本で読み
夕陽を目にするたびに
それが今日ではないという確証があるのだろうか
という恐怖に胸が震えた。
それは、家の事情で生活が一変した時で、
それも関係していたのかもしれない。


今も夕陽を見るとときどき
あの恐怖感を思い出す。