石井ゆかり@筋トレのブログです。
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黒い脳髄

「普通はそんなことしない」という、「経験という名の牢獄」。
http://www.zokei.ac.jp/news/2013/001-1.html




この
「牢獄」
という言葉を目にして
「ピラネージの牢獄」
を思い出した。


牢獄は、外の世界に対して、閉じている。
外の世界で安住の地を得られなかったひとや
外の世界の不可解さを深く怖れているひとにとって
牢獄は、ときには、ユートピアとなることもある。


「経験という名の牢獄」は、
自ら入った牢獄であって、
人から強制されて閉じ込められた牢獄ではない。


人はさまざまな牢獄に、自ら入って、
そこで心を安んずることがある。


ユートピアとしての牢獄に住んで
牢獄にいることを嘆きながら
牢獄に守られて生きている人もいる。


牢獄の扉のカギはかかっていないのに
決してそこから出ないと決めているように見える人もいる。


「悩みの相談」の背景にそういう牢獄があるとき、
「悩み」は決して解決はしない。
その人は牢獄を嘆きつつも、
牢獄から出たくないからだ。


そういうとき
牢獄を否定することができない。
牢獄がその人を守っている時
あえてその人を牢獄の外側に引っ張り出して
外の世界という危険に満ちた場所にその人をむきだしに置いておくなど
無責任すぎるように思われるからだ。


牢獄を出るか、出ないか。


私たちの牢獄。
扉の取っ手には、深い迷いがまとわりついている。


      • -


上のリンク先から、もう一文。
http://www.zokei.ac.jp/news/2013/001-1.html


「私たちひとりひとりはちっぽけな存在です。
私ひとりが存在しなくても、社会はつつがなく進行するであろうと確信できます。
私たちが経験を通して実感することのできる社会は、ごく限られたものでしかありません。
世界にはさまざまな問題があり、遠い国で内戦があり、
飢餓があり、苦しみがあることを私たちは知っていますが、
私という小さな存在が、いったいそのような広大な社会とどのように関われるだろうか?と
思わず立ち止まってしまうかも知れません。
しかし、社会は私たちひとりひとりのこの小さな現実と無関係に、
どこか別の場所にあるのではありません。」


たとえば
どんなにちいさな「牢獄」を形作ったとしても、
目の前にあってけっしてなくならない小さな現実は「社会」の一部であって
私たちはいつも「社会」と関わって生きていかなければならない、
ということなんだろう。


排除して排除して、排除し尽くした瞬間に
まさに自分の真ん中に発見してしまう、
絶対に消え失せない「それ」が
どうしてもそこに、あるんだろう。な。