石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

焦点


「させて頂きます」といういい方がハナにつく
というハナシがある。
本来は、権力を持つ側が、謙譲の美徳を示すために敢えて目下の者に対して使う表現だからだ、とか
責任の所在を曖昧にしてしまうから無責任だ、とか
「いたします」でいいんだ、とか
そういうことらしい。



でも
たとえば「仕事をさせて頂く」とか
「ハナシをさせて頂く」とか
そういうふうに言うときは
ほんとうに
「これは、自分がしたいから、というだけでは、できるものではない」
という感覚があるから、
つい、そう言ってしまうんじゃないだろうか。
「休ませて頂く」だって
「一度でも休んだらもう二度と仕事させないぞ、と言われないでいられるのは皆様のおかげ」
だとか思うと
なんかしっくりくる。


だれもが
「自分の裁量だけでできるようになってるわけじゃない」
というリアリティがあるからこそ
「させていただく」
って、言いたくなるんじゃないだろうか。
「おかげさまで」
みたいなもんで
「自分一人の力で出来たわけじゃない」
というリアリティが、そう「言わせてる」んじゃないかと思うのだ。


偉い人が「自分は偉いけど、自分だけの力で物事ができあがっているとは思ってませんよ」とわざわざ言うために
「させて頂く」と言ってるので
むしろ「させていただく」は、偉そうないい方なのだ
下々はそもそも「させていただく」のがあたりまえなんだから、
それをわざわざいうっていうのは、慇懃無礼みたいなもんだ
みたいな批判を読んだが
まあ
「成り立ち」はそうかもしれないけど
でも
あたりまえなんだったら、言いたければ言ってもいいではないか
と思ったりもする。


たいてい、仕事は人からもらうものだし、
話だって、聞いてくれる人が「きいてやるよ」と許可してくれなければ
そもそも、ハナシにならない。独り言にしかならない。
自分一人でそういうことが実現できたか、というとそうじゃなくて
自分がそのアクションを起こすということについては
それが可能になるだけの、自分の力ではどうにもならない条件が作用してそうなっているのであって
やっぱり、自分以外の力によって
「やらせてもらってる」
んだよな
というふうに感じてしまうから
無意識に「させていただく」になっちゃうんだろう。
というか
そういう気持ちにこの表現がフィットするからこそ
「誤用だ」とか「キモチワルイ」とかくさされながらも
結局、くさされるほどに多用されるんだろう。
人の心(というか言語中枢的なものというか)にフィットしなければ
その言葉は、はやらないんだよたぶん
という気がするのだ。(→この件は、この記事がおもしろい。


等と考えつつ
ちょっとググったら
司馬遼太郎の「街道を行く」に
これは、浄土真宗の商人たちによく用いられた表現で
つまり「阿弥陀様の力でそうさせていただく」という意味があるのだ
ということが書かれていたそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080909/1220977845
私は読んでないのでそのソースが正しいのかどうかは解らないのだが
これは、なるほど、な感じである。



で、上のエントリには
「やはり仏様抜きには使ってはいけない」とあるが
浄土真宗の宗祖である親鸞の言葉の中に
「弥陀仏は自然の様をしらせん料なり」
というのがある。
自然、というのは、一般語の「自然と人工」みたいな意味ではなく
「おのずとそうなるようになっている」みたいなことで
「自分のはからいによってそうなってると思ってるけど実際そうじゃないだろう」
みたいなことだ。
「料」というのは「手段」というほどのことであって、
つまり
阿弥陀仏」というものは、
「自然」というものに到達するための、手段的な概念である
というふうな意味だ。


ようするに
「なんでも自分の意志とか力とかでできてるとおもうなよ」
「縁あって、たまたまできてるだけなんだぞ」
みたいなことだ。
だから
「させていただく」
になるわけだ。
べつに
曖昧にしたくてそう言ってるわけではない。



日本人はなんでも「…と思います」というふうに「思う」をつけて曖昧にする
みたいな記事を読んだけど
これも、そういう気配がある。
「自分はそう思うけど、もしかしたらちがうかもしれないし、もちろん違うふうに思う人もいる」
「今言ったことは、世界の全ての事例をくまなく検証した上で言っている『事実』ではなく、
あくまで、自分が触れられる範囲内での経験を元に私が個人的に主張したい『思い』である」
という意味を込めて
「思います」
って言ってるのだ。と思う。
だから
曖昧にしてるんじゃなくて
むしろ
最も正確に言うならば、そういう言い方しかない
というリアリティなんだ。
と思う。


等々。


ただ、
言葉は「自分だけのもの」ではない。
相手に伝わってナンボ、である。
自分が言葉に込めたいくつかのリアリティが
相手にとって必要な情報、とは限らない。
また、
自分の中に生起しているその状態を最も正確に言い表そうとして言葉を重ねていると
文章全体が長くなり、相手には肝心のことが伝わりにくくなる。
ゆえに、情報量を少なくする必要が出てくる。
「思います」だのをそぎ落として、
文章を「端的」に加工する。
そうすると、相手には受けとりやすくなる。


そこでは
解像度を落とすような単純化が行われる。
様々な部分が裁ち落とされる。
それでも
どうしても伝わらなければならない部分だけは伝わる、ことになる。
だけど、そこには「印象」という
ほとんど言葉では説明できないような何事かもつきまとっていて
そうした「印象」は
「意味が伝わるかどうか」とは
全く関係ないところで生成されていたりする。
そうした「印象」は
へたすると、前述の「自分のリアリティにもっとも近いいい方で言おうとした、その表現」から
生まれる事もあるんじゃないかという気がする。



こんな商売をしていてなんなのだが
言葉にするということは
むずかしいことだなあ

つくづく思う。

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冒頭の「させて頂く」への違和感について
「きもちわるい」とか「怒りを感じる」とかいう表現が出てくるのが
これもまた面白いなあと思う。
たとえば、計算が間違っているのを発見したとき
「きもちわるい」とか「怒りを感じる」とかには
なりにくいんじゃないかと思うのだ。
なにかの「間違い」を発見したときの感覚として
「気色悪い」「頭にくる」
っていうのは、冷静に考えると
過剰反応ともおもえる。
でも実際
「この言葉はこう使うはずだ」という認識からズレた言語表現を見たとき
「いやだ!やめて!」
という拒否感を感じる人は、決して少なくないだろうと思う。
「許せない」と言う人さえいる。


「こんにちは」を「こんにちわ」と書くのが許せない、とか
ら抜き言葉」が許せないとか、語尾上げが許せないとか、ギャル文字が許せないとか、
世の人がいう「許せない」にもいろいろな種類がある。
この「許せなさ」はもはや、
思考やリクツや客観的合理性の範疇の外側にある。ような気がする。
たとえば、誰かが服をうしろまえや裏表に着ていても
「頭にくる」ことはないだろう。
「誤り」が「善悪」の感覚にまでむすびつくことはない。
でも、語法の「誤り」は、なぜか
それに立腹する人々の、善悪の感覚を刺激しているようにおもわれる。
倫理・道徳的に怒っているように見えるのだ。
あるいは「誇りをけがす」というような
侮辱への怒りにもちょっと似ている。


「伝統的な使い方からすると誤用している」ことが
「頭にくる、許せない」となるのは
人間の頭の構造が「そうなってる」からなのではないか。
つまり、ブローカ野・ウェルニッケ野みたいな部分が
もしかしたら、集団への帰属意識とか、誇りとか、
そういった感情を扱う部分とじかづけされているのかもしれない。
星占い的には、そういや、じかづけになっている。
すなわち、双子座と蟹座は隣接している。
共通言語→共同体
と進んでいくようになっている。


あるいは、この「語法のズレが怒りにつながる現象」は
人の、組織や集団への「所属」の感情と関係していそうだ。
言語を同じくする者同士は、味方だ
という感覚が私たちの中にはあって、
小さな語法のズレが、それをぐさぐさ刺激するのかもしれない。
江戸時代、各「藩」は互いに強固な方言を用いる事で、
藩の境界を明確に堅固にしようとした
みたいなハナシをどこかで読んだ。
他藩から人が闖入してきても、
その言葉の違いで、すぐに「他者だ」と発覚するわけだ。


今でも、10代の女の子達は
自分たちのあいだだけで通じる言葉をつくりだして
それを共有することで、お互いの結びつきを強めようとしているように見える。
で、それが「流行語」にまでなる場合もある。
その言葉が、世代的な集団を漠然とうかびあがらせ、
その言葉を理解できない人々もまた、
「その言葉が理解できない」と言い合うことで、紐帯を強める。
さらに、専門分野にいる人同士の中だけで用いられる専門用語、ジャーゴン、符丁、
というのもある。
ことほどさように
言葉によって紐帯を強化しようとする衝動が
私たちの中に、あるということなのだろうか。


ある集団が形成されると、
そこに、そこでしか通用しない言葉が生まれる。
そうした「仲間内の共通語」をつくり出すために
私たちは言葉を「作りかえる」。
そういうふうにできているのではないか。
だとすれば、同じ言葉を話さない相手に対して
違和感を感じるようになっていなければならない。
語法が少し違っても
「あ、集団が違うのかも」
と、すぐに解らなければならない、わけだ。
だから「不快になる」ように出来ている、のだったりするんじゃないか。



最近、
何となく見ている旅番組があるのだが
そのナレーションで、気になるところがあった。
「畑」の発音が
なんかヘンなのである。
「はたけ」は、「た」と「け」が高く発音されるだろうと私は思うのだが
そのナレーターは
「はたけ」の「は」と「た」が高く発音されて、「け」が下がるのだ(確か)。
その、私にとっては奇妙な「はたけ」の発音が耳について離れなくなり、
その番組を「畑がでてこなければいいが…」とハラハラしながら見るようになった。
番組自体は好きなのだが
その「はたけ」が出てくると
気になって仕方がない。イライラするのである。


で、いつのまにか
その番組のことを自分の中で「はたけ」と呼ぶようになった。
番組が始まると
「いつでるか、はたけ、いつでるか」
と思い、ドキドキし、なんだか
「はたけ」を聞くためにその番組を見ているのでは…
という状態に陥った。


そしていまでは
「はたけ」
が出てこないと
なんとなく物足りなく感じるようになってしまった(爆


言葉は
ふしぎだ。