石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

復旧


ツイッターで思いつきで呟いて、
でも、ツイッターの文字数制限だと書ききれないことに気づいて
(ブツブツ連続して書いていくことはできるんだけど、
 それだと部分的にしか読まれないことが増えて、誤解が生じるので)
一端削除して、こちらに転載した、以下2件。




#


「感動」って時間がかかる。
例えば一枚の写真や絵を見て
「あっ、これすごいかも」と思って、
そっからじわじわっときて、
ぐわっとなって、
その世界が頭を支配する、
そこまで数十秒から数分。
その時間は自分の身体で創るんだけど、
そこをさくっと省略すると
「感動しないで済ます」が
クセになる気がする。


子供の頃は
じつにそれをじっくりやれたような気もするなあ。



子供の頃のそういう感じを思い出すと、
「感動」のプロセスというのは、
子供の頃、畑や森の脇の農道というか、
特に公道との境目はないんだけど舗装してない、
私道っぽい道に入り込んだときと似てる。
入ってもいいのかな?みたいに、ドキドキしながら侵入、的な、
緊張感と時間の経過の感覚があるんだよな。


ここで、「コンサートやライブは、みんな同じ時間ですよ」というツッコミをもらって
後でちょっと考えたことが2つある。


音楽は、そういう「時間」と切り離せないという特殊性がある。
ドラマや演劇もそうかもしれないけど、
ある程度の時間、黙ってじっと対象とつきあわなければならない。
音楽を三倍速で早送りして聴くとか、
かいつまんで所々きく(それはあるか…サビだけしってるとか…でもそれだってサビを一定の時間より早く効くことはできないよね)とか
そういうのがない。
音楽や演劇は、身体的時間に対して、ある種の絶対的特権を持っている。


でも、絵画や写真や活字なんかはどうかというと、
「ぱっとみておしまい」
「一瞬目をやって説明文を読んで次」
「かいつまんでとばし読みしておしまい」
「要点やあらすじでおしまい」
などができる。
つまり、時間を作品の方から強要してこない。
だから、そこで感動しようと思ったら
自分からある程度意識的に
「ぐっ」
と、入り込む必要がある。
それには、時間が絶対的に必要なのだ。


あと、もう一つ思ったことは、
感動するときに使うような「時間」っていうのは
時計で計れるような時間じゃないのかも。
例えば、何年も経過する夢を
一晩の中のほんの一瞬で見る、みたいなこととか、
致命的な危機に際しての「走馬燈」の話とかがある、
そういう身体の中の特殊な時間みたいなものがあって、
そういう時間を感動に「かける」ことができる、のかも。


「感動」には時間がかかる。
glanceは「ちらりと見る」で
gazeは「注視する」という意味だ。


「おじいさんはツバを吐かんばかりにののしる。
 あんたもただの観光客だな、なぜもっとゆっくりしていかんのだ、
 眼で切っただけではないか、という意味のことを言った。(中略)
 指をあげて自分の眼をさし、”シュナイデン(切る)”と鋭く発音した。
 まさにそのとおり。」(「地球はグラスのふちを回る」新潮文庫


開高健がロマンチック街道を観光バスで訪れた際、
ドイツ人のおじいさんに言われた言葉。






#


ある、辛い虐待を受けて育った方からのメッセージを読んで、感じたこと。


「貴方を許します」っていうのは
「もう貴方を責めるような言動はしないよ」という、
自分の行動についての約束なんだろう。


「許します」と決めて、そう言ったからといって
「怒り」自体がそれで消えてなくなるわけではない。
意志や宣言で感情が消えてなくなるなら
私たちはこんなに苦労はしない。



「怒り」は「恋に落ちた」と同じで、
自分の力ではどうにもならない。
それは感情だからだ。
感情は容器に閉じ込めて隠したり、
状態変化させたりすることはできても、
故意になくすことはできない気がする。
自分の力で荒ぶる激しい、奥の深い感情を「消しました」なんて
とても言えないような気がする。


心の表層でチャプチャプ波立つものを
なんとかして「切り替える」「発散する」「なだめる」ことはできるかもしれない。
でも、心の奥の方まで降りていって燃えるような激しい感情については
意志の力でコントロールできる、なんて
おこがましいんじゃないかと思う。


だからこそ
人は古来、感情を「水」にたとえたのではなかろうか。
少ない水なら、容易に御せる。
でも、多い水なら、どうだろう。
どんなに堤防を造り水路を造ってコントロールしようとしても
いつか、人間の想定を遙かに超えた力で
私たちは押し流されてしまう。
そういう光景を見ていても
「泳げれば大丈夫なんじゃないか」などと
水を軽視する人も少なくない。
水は、外から見ると、それを御するのは簡単そうにおもえる。
でも、中に入ると、とてもじゃないが抗いようがない。
少量の水は問題なくても
それが大量になった場合は
雲を遮る山、海をかき回す風、大気に電光を発する嵐となって、天地を激しく揺さぶる。
そこまでいくともう、
「人間の意志」など
どうすることもできない。


そうした激しい怒りや、怒りから来る疑いは、
年月が経つと「鎧」になってその人を守るようになる。
そこまでくるともう、怒りや疑いを手放すことは
かえって、苦痛になる。
それを手放したらもう一度ゼロから
「人は裏切るかもしれないし、裏切らないかもしれない」
という完全に無防備な状態に戻らなければならない。
全くゼロの、あかんぼうのように無防備な状態にならなければならない。
これは、怖い。



深い怒りを手放したときの突き抜けるような虚しい感じはきっと、
深く信じていたなにかに裏切られるときの感じと同じだろう。
怒りや悲しみがなければ生きていけない、っていうのは
それほど奇妙なことじゃない。
多くの宗教があんなに「怒るな」っていさめるのは、
そういいまくらなければならないほど
事実、怒ってない人が少ないからだろう。


この「怒り」は、
生涯をかけなければならないような「怒り」のことで、
決して日々流れ去っていくような「怒り」のことではない。
このあいだ、編集者のSさんが、子供の頃に読んだ格言のことを話していた。
彼女は
「怒る人は、自信のないひとだ」という格言が
ずっと忘れられずに心の中で生きている、と言った。
もっと卑俗な言い方をすれば
「金持ち喧嘩せず」みたいなことだろう。
確かに、怒ることは、弱さに由来しているのかもしれない。
真に強い者は、怒らない。
「怒らず、叱りましょう」というのは
「貴方の方が強いのだから」という意味でもあるだろう。



たとえば
完全に弱い立場におかれて、
圧倒的な強い力に打ちのめされて
その時、胸に熾った怒りというものは
人の生き方を決めてしまうこともあるのかもしれない。


もちろん
同じ目に遭わされても、違う道を選ぶ人はいる。
痛烈な経験を語りながら、そこから見事に自由になった人も見たことがある。
一方、そうではなく
怒りを心の深くに手放せないまま、
ふだんは全く問題なく、穏やかに社会生活を送っているのに
ある局面でその怒りが激発するのを
なすすべもなく見守るしかない「自分自身」を発見して呆然とする
という人もいる。


こうした人に
「怒りを手放しなさい」
なんて
少なくとも私には、とても、言えない。


むしろ
その怒りを友とすることはできないだろうか、と考える。

その怒りは既にその人の友であり、その人の心そのものなのだろう。