石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

やさしさ。

タチアナさんのブログ「ロシア駐在日記」
http://blog.livedoor.jp/choko_tanya/archives/7009890.html
「日本語の「やさしい」は何となく「無害」というニュアンスが強いと思います。「地球にやさしい」や「肌にやさしい」などのような使い方が出てきているのもそのためだと思います。
 しかし、ロシア語の«добрый»は「無害」というニュアンスはそれほど顕著ではありません。これはもっともっと積極的な意味合いを持つ単語で、「誰かを救ったり」、ときには「悪者とたたかったり」するという意味が含まれると思います。」



むむむ。
日本語で、そういう「積極的優しさ」を表現する言葉って
あるかなあ。。。。

考えてしまった。


動詞なら何個か思い浮かぶ。
「大事にする」とか
「守る」とか。
でも
「そういうことをする心のありかた」を表現する形容詞とかってあるかなあ。


そういうことをする心を持っている人を称して、
「健気だ」
という言い方があるけど、
「けなげでありなさい」
とは言わない。



親切、というのが一番近いかもしれない。
「人に親切にしなさい」
というのは、そうだな、積極的でしかも優しい。
なにかをしない、ということではない。


そういや「親切」というのは
禅語に出てきた。
に書いたけど(ステマか(爆)


「知らず、もっとも親切なり」。


「どこに行くんだ」と旅の行き先を問われた和尚が
「しりません」と答えたら、
「しらないというのは、もっとも道に親しくねんごろなことだ」
と言われた、というハナシだ。


「道に親しく、切ろなことだ」
というこの「道」は、「仏の道」のことで、つまり、
「仏の心に近い」というのが「親切」の元々の意味なんだということだ。
なんかもとをたどったらやっぱりなんとなく
「知らない」・・・、
また「なになにしない」が出てきた。


とはいえ、親切は「仏の道に叶うことをする」ということだから、
まあ、積極的と言える、かもしれない。


とはいえ「親切」には
「敵と戦ったりする」というほどの熱さはない。
たとえば自分を攻撃するものと戦ってもらって
「貴方は親切な人ですね!」
っていうのは
ちょっとアレだよな。。。
虫を退治してもらったくらいなら
「いやあ、ご親切な方だあなたは!」
とかでいいかもしれないけど。。。


しかし
「誠実」とか「真摯」とかいう言葉もやっぱりどこか
「ずるいことをしない」「嘘をつかない」みたいな、
なにかを「しない」というイメージを含んでいる。
日本語の「やさしい」が
「悪いことや利己的なことをしない」という意味を含んでいて、消極的な意味で使われる
というのは正しいと思う。


このブログに書かれてる「いいこ」もそうだけど
日本で「よい」とされることって
何か悪いことをしない
積極的に自我を打ち出さない
ということとイコールなんだろうか。


なにかをすることがいいんじゃなくて
なにかをしないことがいい、と評価されるわけだ。


でも
なにかをしないでいること
というのは
そもそも、発見されにくいから
褒められる事も少ない。



なにかを「しでかしたとき」、つまりこれは「失敗したとき」は
盛大に怒られたりけなされたりする、というわけだ。
ゼロとマイナスしかない。


しばしば「日本人の評価は減点主義的だ」みたいな記事をみかけるが
「やさしい」も「誠実」も「いいこ」もみんな
その評価のしくみが「悪いことをしない」だ
なんて
たしかに、立派な減点方式だ。


日本では他国と比べて
ミーティングや講義の場なんかで発言する人が少ない
なんてのもよく聞くけれど
「発言して間違ったことを言う」のが一番の「悪」なんだから
この「悪」を避けるために、なにも言わないでおく
という行動パターンになるのは、当然と言えば当然だ。



「これはもっともっと積極的な意味合いを持つ単語で、「誰かを救ったり」、ときには「悪者とたたかったり」するという意味が含まれる」


って、なんか胸が熱くなった。
そういうことばがある、ということは
そういう価値観がある、ということだからだ。


私もそういう積極的な優しさを持ちたい、と思った。


でもたぶんそれはなかなか難しいことなんだと思う。
遠慮したりおどおどしたり手を引っ込めたり身を守ったり、
そういうことがクセになってしまっていると
そんなにも積極的な優しさって、打ち出しにくいような気がする。
積極的であれば、間違ったこともしてしまう。
消極的であれば、たとえ誤解していても、「まちがったことは、しないですむ」。
積極的な優しさがアダになって
大問題が起こる事もある。
「親切」が「おせっかい」と表裏一体になっていることを
誰もが知っている。
「ありがためいわく」とか、「押しつけ」とか
積極的優しさが招いた不幸を表現する言葉がたくさんある。
積極的優しさは、時として、「害」を生む。




でも
だからって
積極的に優しいことはダメなんだろうか。
いや
決して、ダメじゃないよな。。


などとぼんやり考えていたら
ああ、そういうふうに優しい人がいたなあ、って
過去の中に、そういう声がふと、思い出されたり、した。

      • -

でも更によく考えてみると
「悪者とたたかう」
というのが、なんかおもしろい、と思った。


というのも
私たちが育った世界観の中に
「悪意を持った、悪者」って
なかなか出てこないような気がするのだ。
ずるいやつとか、貪欲なやつとかはいるんだけど
戦って打ち倒さなければならない「積極的悪」
というイメージが
なんかこう、
ナイ。


異世界のもの、たとえば「オニ」とか怪物みたいなのはいるんだけど
そいつらは「悪意を持ったわるもの」ではなく
どちらかというと「理解不能なものたち」であって
そいつらはそいつらの世界観で生きていて
その世界観がどうも、こっちと合わない
ということだけのような気がするのである。


あれは「悪」だから、「悪」は倒さねばならぬ
みたいな
ハッキリした善悪が
あんまり、ない
のである。
「悪党」にもいろいろ事情があって・・・・
みたいな尾ひれまでつくこともすくなくない。


「日本のゲームにはなぜ「銀髪」の敵キャラが多いのか」
という件について書いた以下のエントリを思い出す。
http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20080927/p2



ハッキリした「憎むべき、倒すべき悪」のイメージがない以上、
それに対応するようなハッキリした積極的「善」も
うかびようがない
ということなんだろうか。


「「無害」というニュアンスはそれほど顕著ではありません。これはもっともっと積極的な意味合いを持つ単語で…」


つまり、「良い状態」「善なる行為」のイデアみたいなものがどこかにあって
そのイデアに近づければいいのだ
という発想なのかもしれないと思った。



「人の気持ちが分かる子供になって欲しい」
と望む親御さんが多いそうだが
これは
「相手の心の中に、どうして欲しいかという結論、イコール、善がある」という発想で
つまり
何が善かは
「相手の気持ちによる」のだ。
もっと言えば、善悪は、「時と場合による」のだ。
「相手に聞かなくても、だれでも解ってる善」
というイメージが、日本には、あんまり、ナイ、ってことなんじゃないか。


以前、「贈る=送る」という記事を書いた。


贈り物をするのは難しい。
相手が喜んでくれるかどうかなんて絶対にわからない。
「相手が必ず喜んでくれる物を贈る」と決めたなら
相手が要求した物と寸分違わぬ物しか送らない
ということしかできない。
でもそれを贈ったところで、
相手が本当に「嬉しい」と感じるかどうかは、最終的には、わからない。
もちろん、生活必需品が不足しているような場合に
「これを送って下さい!」という必死の問いかけに応えたなら、
必ず喜んでもらえるだろう。


でも、それ以外のことでは
人は奇妙な生き物で
自分が要求した物を受けとったとき、それに裏切られる
ということだって、あるのだ。
「相手が要求した物を送ったのに相手がガッカリする」
という「可能性(あくまで「可能性」だが)」は、まったくのゼロには、ならない。
ましてや、要求されていない物なら、なおさらだ。
どんなに心を尽くしたところで
相手が気に入るかどうかは、最終的に相手が手にとってくれるまでわからないし
本当のところは、徹底的に、相手に「しか」わからない。
だから
「相手が必ず喜ぶ物しか贈らない」はイコール
「何も贈らない」としかならない。
何も贈らなければ、ガッカリさせることはないのだ。


だからだれかがだれかに物を「贈る」ことを決断するときは、
どこかでみんな、賭けをしているのだ。
きっと喜んでくれるだろう!という
その可能性に、賭けているのだ。



こういうことが
「善悪」の感覚にも
地下茎のようなものでつながってるのかもな、と思った。



でもやっぱり
心の中に「こういうのが、いいんだよ!」というのを
とても美しいかたちで、自ら燃える炎のように持っている人がいて、
そのやりかたで、「積極的に優しく」してもらったことを思い出すと
それがときどきは、ちょっと的外れでも
どうにも、うれしかったなあ、と思う。
他人から見たら
自己満足とか、自分勝手とか
そんなふうにも言えるんだろうし
そのこと自体は、どれも些細なことだったけど
でも、そうしてもらった自分は、うれしかったのだ。
今思い出しても
どれも、ほんとにささやかなことなんだけど
顔が自然に笑顔になってくるような
お腹の中が少しあったかくなるような
そんな嬉しさが蘇ってくるのだ。