石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

炊き出しに参加してきた。


スズキにはどんな車種があるのかな・・・?
と知りたかったわけではない。
その向こうに広がる
宮城の、ひろいひろい田んぼの風景が撮りたかったのである。
マイクロバスの車内から慌てて撮ったらこうなった。




福田春美さんに「行きませんか?」と声をかけられ
28日、避難所の炊き出しに、日帰りで行ってきた。
朝0時30分東京を出発し、夜24時頃東京に戻ってくる
という「日帰り」だ。
こんなに長い時間ブラジャーしてたのは生まれて初めてかもしれない。


震災当初からこのブログでは毎日(GWはシステム的なトラブルでできなかったけど)、
震災の情報を集め続けてきた。
多くの方がそれぞれのやり方でボランティア活動をされているのを
ディスプレイ越しに眺めてきた。
知り合いも現地に炊き出しに行く人がちらほらいて
「私も行った方がいいかなあ」と思うことが何度かあった。


でも
私は筋金入りの「集団行動デキナイ人間」である。
私の社会人生活は、フツーに会社員からスタートしたのだが
どんなに頑張っても会社に居着けず、
何社か転転としたあげく、
気がつけばフリーで仕事するようになっていた。
そういえば高校のときは出席日数ギリギリな感じで進級してたし
キャンプや運動会などの課外活動は
できるかぎり拒否
で通してきた。
そんな人間が、ボランティア活動に参加したところで
役に立つわけがない。
協調性がない、空気が読めない、気が利かない。
人一倍体力がない、勇気がない、根性がない。
ないないない。ないづくし。へい!(ヒラキナオリ


というわけで
震災直後より、
一生懸命働いてできるだけ募金しよう
何らかの形で、関心を持つことを忘れないようにしよう
それが自分に合っているやりかただ
と考えた。
そんな気持ちで、ここでずっと、
現地の声や問題になっていることや誰かの役に立ちそうなニュースを
テレビでは流れていないかもしれないと思えたいろんなニュースを
拾い続けていた。


被災地の人の声としてよく紹介されていたのは
「是非、一度現地に来て、この状況を見て欲しい」
という言葉だ。
これは、瓦礫の山のような様子についても、
避難所の状態についてもかたられた。
だけど、多くの人が傷つき悲しんでいるところに
なんの目的があるでもなく、ただ「行く」ことは、自分では良いこととは思えなかった。
逆の立場だったらどうだろう。
確かに、遠くに住んでいる人たちに対しては
「テレビ越しに見えるのはほんの一部でしかない、実情を知らせたい」と思うかもしれない。
でもその一方で「おもしろ半分に見物に来る人間は許せない」とも、思うんじゃないだろうか。


私は、行ったって役には立たない。
でも、自分の目では一度も見ていない。
このことがずっと頭の中でぐるぐるしていた。


福田さんは、何度も炊き出しに参加してきていた。
「継続的にやらなければ」と
忙しい時間を縫って、すごく活発に活動をされているのをちらちら見てきた(HRH)。
最初に声をかけてもらったのは4月、ツイッターからだった。
彼女は炊き出しの参加以外にも、物資や費用負担での参加もできると
いくつかの方法を教えてくれた。
さらに、「石井さんの本を現地に持っていきたい」と言ってくださった。


そこで私は、活動の支援金をすこしカンパするとともに、
本を小さな箱にまとめて送ることにした。
12星座シリーズと「禅語」の重版分があったので、全て一冊ずつ。
小さな箱だったのだが、少しスペースが余った。
がたがたしないよう、梱包材を入れようとして、ふと
「新聞を丸めてつめるくらいなら、いっそ
 同じ『紙』だし、文庫本をつめちゃおう」
と思い、本棚から
・こわくないもの
・気晴らしになるもの
という基準で何冊か選んで、福田さんに託した。
福田さんはそれを、南相馬の避難所に届けてくださった。


「炊き出しの役には立たない、でも、現地を見ていない」。
本の件をやりとりする中で、私はそれを、ちらっと書いた。
そしたら福田さんは、
私を「つれていく」と言った。




そして私は昨日、福田さんに文字通り「連れて行って」もらった。




ボランティア
という言葉は、「無償で、困っている人のために役に立とうとする」という意味を込めて使われる。
今回私が参加したのは「ボランティア」という感じじゃなかった。
料理人でもなければ組織で上手くやれる人間でもない私がなんで「役に立つ」だろう。
自分が参加することが正しいのかどうか、正直、わからなかった。
だから
炊き出し作業をした公民館の調理室で、
戸棚に貼られたスケジュール表に
「28日昼、ボランティアの皆さんの炊き出し」という文字を見たとき
ああ、そうか、私はボランティアとして来てるのか
と、ふしぎな感じがした。


私が参加させて頂いたのは寺本りえ子さんと福田さんが中心になってあつまった、20人弱のグループだった。
炊き出しに色々参加している人もいれば、
私含め、今回が初めての人も数人いた。
私は福田さん以外は全員初対面だが
私のツイッタの朝の占いを見てくれてる方が幾人もいらして
行きのバスの中でみなさんに読まれて超恥ずかしかった(汗



マイクロバスに乗って、夜中に出発した。
東北自動車道を福島あたりまでくると、恐ろしくバウンドした。
道が悪いのだ。
地震でがたがたになったところが、まだそのままになっているようだった。
ちゃちな絶叫マシーンくらいに揺れる。
バスの最後尾に積み上げた荷物が雪崩を起こすのではないかと、何度もふりかえった。



訪れたのは、登米市の公民館だった。
登米市南三陸町と山一つ隔てて接している。
大きな倒壊はなく、ライフラインもちゃんとしていて、
そこに、津波で被災した南三陸町の人たちが避難してきている、ということだった。
体育館と講堂のような建物が2つあって、
そこに多くの人が生活しているようだったが、中は見なかった。
それとは別の建物として「公民館」がある。
2階に調理室があり、その隣が「食堂」になっていた(多分かつては会議室として使われてたんじゃないかと思う)。
会議室的な茶色い天版の長机を向かい合わせに3川ならべて、
数十人が一緒に食事できる。
避難所には150人(だったか?)くらいの方が避難されていて、
普段は、女性達が交代に三度三度ご飯を作っている、とのことだった。
それはかなり大変なことで、疲れも来るので、
こうしてボランティアが来ることが必要なのだった。
でも、この避難所は、登米市自体は大丈夫だし、避難所自体の規模も大きいわけではないので、
なかなかボランティアが来ないらしい。
とにかく「知られていない」ことがネックなのだ。



調理室は、学校時代の「家庭科室」みたいだった。
懐かしい感じがした。
りえ子さんら「隊長」たちの仕切により、皆で材料を運び込み、
9時頃から作業に入った。


私が手伝った料理は
半分凍った塩鯖切り身を半分に切り、
それに小麦粉をまぶしてフライパンで焼き目をつけ、
大きな鉄鍋に拍子切りの大根を敷いた上に鯖を並べて積み重ね、
ぎっしり詰まったところに日本酒を注いで酒蒸しにする
というものだった。



サバ大好き
サバを見るとテンション上がる
というサバ属性を持つ私は、
サバを見て
見知らぬ場所と人々の中でとつぜん知人に出くわしたような安堵感を感じた。
ちなみに
魚を食べると頭が良くなる
というのはウソだ(と思う)。
私はながいこと、週に三日はサバを食べているのに
どんどんモノワスレがひどくなっている。



サバを切って切って切って切り
サバを焼いて焼いて焼いて焼いた。
人生でこれほどサバにとりくんだことはない。
サバは景気よく焼けていき
調理場全体がサバくさくなった。
階下から「換気扇回してます?」と問い合わせがきた。
それで窓を開けた(ので、外にもサバアピールすることになった)。
私はサバでスモークされて「全身これサバ」となり
眼鏡はサバの油で曇り、
サバ疲れして粉をつける前にフライパンにサバをのせてしまってつっこまれたりした。


もはや
サバの妖精だ
いま人魚にされたらまちがいなく下半身はサバだ
と思った。



この昼食のメインは2つ。
飛行機の機内食のように、「肉か、魚か」を選べるのである。
普段、好きなものを選ぶ、ということができないであろう避難所の方のために
りえ子さんたちが立てた方針であった。
肉は豚のローストで、ものすごく厚切りだった。
厚切り肉
を絵に描いたような様子。
味見用にダイスに切った肉に、みんなが背後でテンションを上げている。

私はサバに集中していた。
肉なんかにまけてたまるか。
サバがナンバーワンだ。


いや
肉はすごくウマかった(ふり向いてやっぱり1つ食べた(爆


食事は12時スタート。
ワンプレートに、ミネストローネやサラダ、アメリカンチェリー、オレンジなどが並び、
それにご飯がついて、メインはその場で選んでいただく。
どんどん食堂が埋まっていった。
この日は別働隊で、スタバのバリスタの方が本格コーヒーを淹れにいらしていて、
皆さん食後のコーヒーを楽しんでいた。
(写真がこちらに。→ http://bit.ly/kPQZOi )



調理室にいるあいだは、食堂の様子はわからなかったのだが
最中、「手のあいてる方1人お願いします!」と声がかかり
手があいたので行ってみると、
食堂の入り口のところで、マドレーヌを配る係を頼まれた。
子供達の写真撮影などをしたいので、そのあいだ、そこにいてほしい、と言われた。
そこでしばらく立っていた。
撮影結果↓
http://www.youtube.com/watch?v=gFVFh7oJEKA
みんなかわいい;;)



避難所にもいろいろな空気があるのだそうだ。
福田さんは、「ここは、明るい」と言った。
家族みんなでご飯を食べている風景が多かった。
中には中学生くらいの子が、友達同士できていたり
1人で食べている子もいた。
おばあちゃん達は2人、3人と来て、
みんな総じて明るく、落ち着いた雰囲気だった。
一人、わんわん泣いてる小さな男の子がいたけど
微笑んでみている方が多かった。
泣いたまま、お母さんに抱えられて食堂を出たが
最後にみたときは、
あきらかに、泣き止むタイミングを見失って、泣いてるフリをしてる感じだった。
いつか、子どものいる飛田さんが
「子どもってほんとに、感情なんですよね」って言っていたのを思いだした。
おばあちゃん達がマドレーヌをえらんで持っていってくれた。
「うちのお父さんは歯が悪いのもあって、
お肉が嫌いでほとんどたべてくれないんだけど、
今日のお肉はやわらかくておいしい、と言って食べてくれて良かったです」
とお礼を言っている人もいた。
子供達もみんな礼儀正しく挨拶してくれるし、食べた後のトレーや果物の皮なども
ひとりひとり自分で、片付けていた。
何人もの方が食べた後のテーブルには、ほとんど食べこぼしや汚れがみあたらなかった。
スープをすこしこぼした中学生くらいの男の子が、
「あっ」と言って自分でキレイに拭いていた。
皆さん、部屋を出るとき、
「ごちそうさまでした、ありがとう」と言ってくださった。
私も「ありがとうございました」と言った。



飲食店では、お店を出るとき、お店の人に「ありがとうございました」と言われる。
それは、お金を払った後そういわれるので
お金を払ったからだという感じがする。
でも、お金を払ってもらうのでなくても
自分たちが作ったものを食べてもらう、というのは
「食べてもらう」ので、「もらって」いるので
「ありがとう」と言いたくなるのだ、と思った。
普通だったら「おそまつさまでした」と言うんだろうが
どうもそう言う気にはならなかった。
もしかすると、自分一人で用意した食事だったら
「お粗末様でした」と言ったかもしれない。
・・・・いや、やっぱりそれでも、
「ありがとうございました」って言うんじゃないだろうか。


夕飯の仕込みを少しお手伝いしたりしつつ(ウドを短冊切りにしまくった)
あっというまに片付けが終わった。
福田さんのデザインしたエプロンをみんなで着けていたのだが
ふだんここで料理をしている方々が最後、調理室に来て
「そのエプロン素敵ねえ」と言ったので
福田さんは、汚れてますけど良かったらおいていきます、と、
お二人にかけてあげた。
とても素敵な笑顔で笑ってくださった。
さらに、福田さんが、足りなかったら送ります、と言い、とても喜ばれていた。


一人のおばあちゃんに「あんた、どこからきたの?」と聞かれた。
私は、支援チームが東京から来ていることは知られていると思ったので、とまどいつつも、
他のスタッフが集まっている方を指して、皆さんと一緒に、東京からです、と言うと
そうかそうか、東京からか、そうかねー
と言われた。
私達がどこから来ているか、等も、別に宣伝(?)したりしなかったのだ。
もしかしたら、おばーちゃんが覚えてなかっただけかもしれないけど。
でも私にはそれが好ましく思えた。
「交流」というようなこともなく、
淡々とご飯を作り、しっかり食べていただく
ということをシンプルにやった「炊き出し」だった。
さらっとした支援だ、と思った。
こうゆうのは「東京らしい」感じなのかも、ともおもった。



帰りがけ、避難所のすぐとなりに、非常に美しい建物を見つけた。
次に回るところへの物資を買うためにバスが停車したので、
私はそこにちょっと走って行ってみた。

それは、国の重要指定文化財である
「旧登米高等尋常小学校校舎」だった。

バスの中から見た、北上川をかこむ水田と山の風景は絵のように美しく、
ここにもう一度旅行に来たい、と強く思った。
こういう土地を「地元」として愛する気持ちが、容易に想像できる気がした。
もちろん、どんな美しい場所にも、いろんな問題はある。
でも、愛するとは、愛する対象を、欠点もまるっとひっくるめて
自分自身の一部だと考えることだと思う。
ましてやその場所がこうした、ゆたかな美しいところなら、なおさらだ。
「ゆたかな」という言葉を使うとき
私はいつも、心のどこかで、夏の青々とした水田の風景を思い浮かべる。


南三陸町の人々もまた、自分たちの土地をそのように
愛していたに違いない。


私達はその、南三陸町に向かった。
山一つ越えるとすぐに、瓦礫だらけの場所に出るんです、と教えられた。
山一つ越えるとすぐに。


山の向こうには、穏やかな住宅街が続いていた。
道なりに、古い家も新しい家もそれぞれに生活を住みなして、あたたかだった。
その風景が突然、ある、見えないラインを境目に
ぱつっと切り替わった。
あの、幾度となくテレビの画面の中に見た、「なにもない」風景だ。



今にして思えば、自分でもおかしいなと思うのだが、
私はこの津波の後、地元の人が「なにもなくなった」と言うのを見て、
「ものすごくたいへんな瓦礫の山が『ある』のに、
『なにもなくなった』っていうのは不思議だ」
と思っていた。
「目茶苦茶になってしまった」とか
「がれきだらけになってしまった」とかならわかる。
まるでキレイに拭き取られたような「なにもなくなった」という言葉はなんだろう、と思った。
瓦礫の風景が映し出されるたびに、
「この瓦礫を片付けるのはどんなに大変だろう?」と思い、そう思えば思うほど
「瓦礫の山が『ある』のがものすごく大きな目の前の出来事であるはずなのに、
なぜ『なにもない』と言うのかな」
と感じた。
多分、それを片付けねばならないという無限のような重圧に、感情移入を起こしたからかもしれない。


でも、行ってみて、その意味がわかった気がした。
確かに「なにもなかった」。
人間にとって、なにかが「ある」というのは、
それは、意味のあるものが「ある」なのだ。
人間にとって意味のあるもの。
意味のないものは、いくらたくさんあっても、「なにもない」のだ。
たしかに、なにもなかった。




これらは昨日5月28日に、私がiPhoneで撮ってきた写真だ。


これでもだいぶ片付いてきれいになったんです、ということだった。


以前は目線のずっと上まであった建物の姿が「風景」だったはずだ。
その目の前にあった地平面が、一気に膝まで「がん!」とさがったようなものだ。
目線にある全ての空間を埋め尽くしていたものが、がくん!といきなり、空間にかわったのだ。
「なにもなくなってしまった」と言うしかない。


なにもなかった。


私は、下を向いた。


(つづく)