石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

犠牲



波みたいな、不思議な雲。


数日前の空。


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犠牲を払う
というフレーズが
今週末、何度か、心にのぼった。







新潟で迫さんが個展を、やまちゃんが作品展示をそれぞれ
いまやっている
と聞いて
土曜日、日帰りでびゅん!と行ってきたのだ。



春に自分で写真展を主宰してみてから
「個展」とか「展覧会」とかいうものへの感じ方がすこし、変わった。
ああいうのは、開催中はあたりまえみたいにそこにあるんだけど
開催が終わると、ほんとう!に、あとかたもなく、なくなってしまう。
それは、人が死んだとき
荼毘に付して納骨してしまうと
その人がいたということが、ほんとう!に
世界にぽこっと穴が開いたみたいに失われてしまうのと
よく似ている。
この世界のどこにも存在しなくなってしまうのだ。




こないだ、吉田さんの展覧会におじゃましたのも
そんな気持ちが作用していたんだと思う。
いつでもいける、とか
また次回行けばいいや、とか
そういうふうに暢気に思えなくなっている自分がいるのに気づいた。



やまちゃんの展示は、
「新潟オフィス・アート・ストリート」というイベントへの参加だ。
http://www.city.niigata.jp/info/kikaku/office-art/
これは、新潟市のメインストリートに位置する企業が
自分のとこのショウウィンドウをアーティストに提供して、
道全体を美術館みたいにしちゃおう
というイベントだ(と思う)。


駅の観光案内所に地図が置いてあったのでゲットし
見てみると、
やまちゃんの作品は駅のすぐ近く、第四銀行だったので
駅を降りてすぐ歩いて向かった。


大きなショウウインドウに、
大きな絵がばーんとおかれていた。
バックは布で覆われていて、
その布にも、色がおかれている。
流れにじむ水、やまちゃん「らしいな!」とすぐに強い印象を受けた。



他の方の展示もいくつか見ていて、
やまちゃんの展示は、
すごく作風にあった、かなり良い条件のウインドウをもらえたんだなあ、と思った。
他の作品を見たとき、
通常の広告の一部のようにしか見えないものもあった。
休日はライトが消されてしまって
日が落ちると見えない、という条件のものもあった。
美術館であれば、
まさかに10センチの隣に金融商品のポスターが並ぶ、なんてことはない。
あくまで私の目から見ての印象、だけれど
作品が力を失わされていると思える展示も
正直、あったような気がする。


企業がショウウインドウを貸す、ということは
それだけの犠牲を払うということなんだ、と思った。
更に言えば
アーティストと企業のあいだにどんなコミットがあったか、も
もしかしたら、作品によって違うのかもしれない、と想像した。
もとよりこれは
企業にスポンサードされた展示ではない。
でも
広告スペースを割いて、アーティストに使用させるというコストを
そのアーティストに支払っているわけで
その意味ではやはり、協力し賛同している、ということになるだろう。
それは、犠牲を払っているのだ。
とすれば、その犠牲によってなにがあがなわれたのだろうか。
なにかがあがなえるだけの十分な犠牲が払われているものと、
そうでなかったものとが、あるんじゃないだろうか。


やまちゃんの作品にも、実は問題が起こっていた。
バックに貼られた布の上部がはがれて、
作品の上にぺろんと垂れ下がってしまっていたのだ。
誰の目から見ても「展示が崩れている」とわかる状態だった。
私はこれを見て慌てて、やまちゃんに連絡を試みた。
でも、やまちゃんはすでに知っていた。
知っていたけど、ナントカしようと試みて、
どうにもならなかったのだ。
これをなおしたくても、
オフィスが休みの土日は、なおせないのだった。
なにしろ金融機関なので、
セキュリティ上の問題もあるようだ、とのことだった。
きれいに晴れた土曜日、
せっかく散歩がてら、作品を眺めようとした人たちを前にして
作者が、これをなおすことができない。
辛かっただろう。


この「オフィスアートストリート」は
新潟では今年が初めてなんだろうとおもう。
最初の一歩は、どんなことでも、予想外の問題が出て当たり前なのだ。
今年の経験は、来年以降ももし、続けられるんだとすれば
役に立つはずだ。
たぶん、来年はみんなもっと、アートのためにさらに犠牲を払うことを
考えるんじゃないかと思った。
それはたとえば
一枚の絵を買ったときに
部屋のレイアウトやインテリアを変えようとするようなことに似ている。
ブーツを一足買ったら
それを生かすために、他のファッションも最大限の変化を余儀なくされる。
何か一つのものをテーマとして据えたら
それを生かすために、周りの条件はできるだけ
整えられなければならない。
それを人々が引き受けてこそ、作品が作品として生きるんだと思う。



来年もし、この企画が続くとすれば
アーティストも、環境を提供する側も
今年よりもう少し、距離が近くなるだろう、と想像した。
こうした「展覧会」では
作り手がいて、見る人間がいて、
そのあいだに、キュレーションというものが発生している。
wikiによれば
「キュレーターの仕事は、
 展覧会のテーマを考え、
 参加アーティストやアート作品を選択し、
 しかるべき展示会場に、好ましい効果を発揮するようにアート作品を設置し、
 カタログに文章を執筆することなどである。」
だそうだが
この「しかるべき展示会場に、好ましい効果を発揮するようにアート作品を設置し」
の部分は
このイベントの場合
キュレーターだけでなく、アーティストと企業もまた、
その作業にごく積極的に、主体的に参加しなければならないんだろう
と思った。


それは、
目に見える、明らかに計上可能な直接的金銭的利潤は生まない。
まさに
犠牲を払う
ということなんだとおもう。
だからこそ
その犠牲によってなにがあがなえるのか

全員が強く意識していなければたぶん
そんなことはできないのかもしれない。



やまちゃんの作品を見た後
迫さんの個展に移動した。
万代橋を渡り、川岸をぶらぶら歩いて20分ほどで着いた。


迫さんの作品はシルクスクリーン
AからZまでアルファベットを振ってあった。
いろんな「クリーチャー(だと私は思ったのだが)」が
それぞれすごく自分勝手にいろんなことに没頭して自分の生活を生きている姿が描かれていた。
たとえば、だれかに会って楽しく過ごして、そのあと家に帰ってから
ふと脳裏に残った印象を思い出して、それをざっとスケッチした、
というような具合に描かれていた。
くじらは「あのとき」会ったくじらで
ぞうは「あのとき」乗ったぞうだった。



ここで、春の写真店のスタッフをしてくださった小林さんとゆきあったのだが
小林さんは迫さんの顔を見て
「寝てないんじゃないですか?」
と即座に言い当てた。
迫さんは、そうです、と言い、
「もうできないかと思いました」と苦笑いしていた。
仕事がめちゃくちゃ忙しい中で
作品はギリギリまでそろわず
徹夜を重ねたらしい。



こうした「作品を作る」こともまた
「犠牲を払う」という要素を含んでいる。
寝る時間を犠牲にする、ということもその一つだ。
リスクを負い、労力を割き、資材にお金を投じて、
イデアを、脳みそを焼くように考えながら
うんうん呻ってこの場を作るのだ。



なにかを生み出すためには
なにかを犠牲にしなければならない。
でも、その犠牲によって
なにがあがなわれるだろうか。
その犠牲を払うことで手に入るものはなんだろうか。
もちろん、作品を販売してそれで利益を上げ、
黒字にすることを目的とする展覧会もあるだろう。
入場料を徴収してきちんと元を取り、次につなげよう
とか、それ自体をビジネスとしている展覧会もたくさんある。
でも、ぜんぜんそうじゃないものも
たくさんたくさんある。
そこでは文字通り、「犠牲」が払われている。



犠牲
という言葉は、
殷の湯王がひでりのとき、
自分の身をいけにえにして天に祈り雨ごいをした故事にもとづく、のだそうだ。
自分の身を犠牲にすると
雨が降って、民が救われる。
この王様は自分の身を犠牲にすることで、
雨をあがなったわけだ。



では
アーティスト達は
犠牲を払って、なにをあがなっているだろう?
それは
人それぞれであることはもちろん、そうだ。
さらに
場所を貸した企業さんたちは
キュレーターである地方公共団体
なにをあがなおうとしたのだろう。


雨は降らないかもしれない、それでも、犠牲を払って、雨を願う。
アートは、犠牲を払って、何を得るんだろう。
見るものの感動なんだろうか。
「文化」とか「地域」とか呼ばれることのなにごとかなんだろうか。


私もまた
春に写真展をやったわけで
そのとき、たくさんのパワーがかかったのは間違いない。
ひたすら持ち出しただけで、
私には直接的金銭的利益はない。
作品は販売したけど、それは作家のもので
作家達もまた、長年、お金にならずひたすら持ち出しとなる「創作」を
ずっと、犠牲を払って続けてきている。
でも私は
あの展覧会をやって良かったなと思っている。
ある人は私に
「どんなに費用がかさんで赤字になろうと、
 こと、こういうことについては
 そこに人と人とのつながりが生まれれば、
 それでまったく損はなく、おおいに得です」
と言った。
たしかに、そうかもしれない。
あるいは、そこで一瞬にして消えてしまおうとも
人は「時空」を生きる。
所詮すべての時空は、どんなに堅牢に長期間に見えようとも
その人の人生の中で、一部を埋めて過去に流れ去るものでしかない。
とするなら
そのささやかにちいさなひとつを現出したことには
あらゆる意味が詰まっている、と言えなくもない。



その犠牲を払ってなにがあがなわれるか

私は事前には予期していなかった。
というより
事前に予期したものはいかにもちっぽけだった。
実際に起こったことはもっと大きなことだった。
でもそれは、どうも
すらすらと言葉で説明できるようなものではないようだ。


ただ、あのことで
私を含めた多くの人の頭の中にある「マップ」が変わった
ということは、言えるかもしれない。
人は無意識に頭の中に世界の地図をつくってその地図の中を生きる。
新しい場所にゆけば、地図にその場所が新たに書き込まれる。
地図は人生を重ねるほどに広がったり、
逆に狭まっていく場合もある。
ある箇所だけが非常に細かく書き込まれる場合もあるし
宇宙の方までその地図が広がってしまう人もいるだろう。


時間と空間は実に不思議だ。
ホロスコープは時間を空間に置き換えて読み取ろうとする道具だけれど
人間はそんなふうに
時間と空間を自在に置き換えて読み替えて
そこに、意味や価値や物語の連なりを見いだそうとする生き物らしい。



展覧会、というのはきっと
そんなヒトの営為のひとつなのかもしれない。