石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

恐怖


こないだテレビ見てたら
ロッククライミング
「フリーソロ」というのをやるクライマーが出てきた。
フランス人で、断崖絶壁のようなとこから、
高層ビルまで登ってしまう。
フリーソロ
というのは、命綱なしで、手足だけ使って登ることをいうらしい。
(たぶんこの人だったと思う)





彼はかつては、命綱を使って登っていたのだが
一度、命綱が切れて、体中の骨を折った。
復帰はムリ
と言われたけれど必死にリハビリして
復帰した。

復帰したとき、元のスタイルを大きく変えた。
結局役に立たなかった命綱を、やめたのだ。



「身体を鍛えることは誰でもできるけど、
 精神はそうじゃない」
と彼は語った。
40階建てのビルを、細いすきまを掴んで、32分で登り切る。
途中で指から血が出たりする。


いったい、どんなふうにして、恐怖を克服するんだろう?
想像もつかない。


一度命綱が切れた、
そのあと、
もっと強い命綱にするんじゃなくて
「信用ならない命綱なんかに頼ることをやめた」。
それはどういう心の動きなんだろう。


ひとつひとつの手順がいちいち、
命に関わる一大事だ。
彼は「自分の人生を平凡なものにしたくないんだ」と言った。
確かに、こんなにたくさんの瞬間「試されて」生き残っている命というのは
非凡だろう。
一瞬一瞬の危険に洗われ
危険という灼熱につっこまれ、刀剣のように鍛えられているような生命だ。



私はこないだ海に行って
浜辺からちょっとだけ沖の人工島(浮き輪のオバケみたいなの)まで
50メートルくらいの距離を泳いだ。
足がつかない深さだけど、
プールでは300メートルとか500メートルとか続けて泳げるし
このくらいの距離なら楽勝
と思った。
が、しかし
途中で「足がつかないんだ」と思ったら
いきなり、息が上がって、呼吸不能になった。
水に顔を漬けられなくなって
最後は犬かきでどうにか島に着いた。
帰りはもっとひどくて
足がつくところにつくまでに「モウダメ」と思った。
これは、もう、完全に溺れる
と思った。

なんとかもがいて、半死半生で岸にたどりついたものの
しばらく波打ち際に座り込んで立てなかった。



あれは
体力とかそういうことじゃなくて
精神力の問題だった
と思った。
足のつく、または、すぐつかまれるプールなら、
あんなことにはならなかったはずなのだ。
「足がつかない」っておもったとたんに
呼吸がダメになり、筋肉もうまく動かなくなった。
・・・・なんというチキンハート orz
自分嫌いに一層拍車がかかったが
仕方がない。
恐怖心とはおそろしい。
自分を飲み込んでしまうのだ。


たいていの失敗は、恐怖心から生じる。
悪事もわりとそうだ。
ウソやゴマカシのほとんどは、
本当のことを言ったときに起こることが怖いから、生じる。
恐怖すると、自分をまもりたいと思う。
まもるためには何でもしよう、となってしまうと
結局、自分をまもれなくなってしまう。
妙なことだ。


私はほんの小さい頃から、非常に恐怖心の強い子供だったらしい。
「お前は臆病だなあ」といろんな場面で何度も父に言われたのが
かなり小さいころから記憶にありありと残っている。
今でもほんとに、こわがりだ。
この恐怖心さえなければ人生全然違ってただろう
と思う。


あのクライマーは、どうやって恐怖心を克服したんだろう?
恐怖心は「なく」なるんだろうか?
「登っている間は、悪い想像は一切しないことにしている」
「不安などのことは一切考えない」
と彼は言っていた。
怖いことを考えない
っていうのは
泳いでる最中に「足がつかないんだここ」と思わない
ということだろう。
それは訓練で出来るんだろうか。
彼は「鍛えた」と言った。
たぶん、彼には、彼が発見した「鍛える方法」があるんだろう。
でも、それは、身体を鍛えるほどには簡単ではないらしい。
禅なんかもおそらく
そういうふうに「鍛える」手段として生まれたのかもしれない。



あらゆることがやたらにこわい。
この「こわい」がなかったら
もっとうまくいってただろうなと思えることが
過去にも現在にもたくさんある。


あの断崖絶壁の中腹に一人でいて
ひとつ、手をまちがえばすぐに死んでしまう
という状況にいる人の気持ちを、想像してみたのだ。
そうするとなにか
ヒントがあるような気がして
そこではどういう気持ちなんだろうって
何度もシミュレーションしてみたりする。


そうしてるうちに
もう一回、同じ場所に行って泳いでみたい気になってきた。
もう一回やってみたら
今度は、違う気持ちで泳げそうな気がするんだけどなあ。






・・・・ま
浮き輪は持っていこう(だめじゃん




人様に迷惑をかけてはならんからな。。ふ。(言い訳




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そういや、
レクチャーやるときも
最初はほんとに怖くてガタガタふるえてたけど
最近はふるえることはなくなったなあ。
会場に向かうときは、今もちょっと怖い
喜んでもらえなかったらどうしようとか
何か問題が起こったらどうしようとか
悪いことを想像してしまう。
でも、最初の頃ほどには怖くなくなったんだと思う。


命綱が切れて岩盤に叩きつけられたあとに
どうして「もう一度登ろう」と思ったのか
なんとなく解るような気がした(ちがうかもしれないけど


あくまで単なる想像なんだけど
恐怖に飲まれて恐怖の中に住むということが
もしかしたら、怖かったのかもしれない、と想像した。


恐さにはいろんな種類があるのかもしれない。
たとえばもしかすると
いい恐怖とわるい恐怖というのがあるのかもしれない。
いい・わるい
というよりは
「どうでもいい恐怖」と、「どうでもよくない恐怖」とか。
あるいは
「ないほうがいい恐怖」と「あったほうがいい恐怖」とか。


いい恐怖は人を前に進ませるけど
悪い恐怖は、人を溺れさせるのかもしれない。


だとすれば
いい恐怖はなにで、悪い恐怖ってなんだろう?


思いつきの仮説で言うならば
悪い恐怖は、現実と食い違っている恐怖で
いい恐怖は、現実と噛み合っている恐怖、なのかもな。
たとえば
未来のことは予測できない。
誰にも解らない。
だから、怖い。
これは、まちがってないから、いい恐怖だ。
でも
「足が立たないから万が一息が上がったら溺れるかも」という恐怖は
「50メートルくらいなら楽勝で泳げる」という自分の実力とは食い違ってるから
悪い恐怖なのだ。


もちろんその可能性はゼロではないけど
それを考えたからってどうなるもんでもない
という点で
ぜんぜん「いい恐怖」ではないような気がする。


「手が滑ったら落ちるかも」という恐怖は
「手が滑らないように訓練してきた」という自分の実体と噛み合わない
ということなのかもしれない。
そういう、意味のない恐怖を
経験によって払拭していく、ということがもしかすると
「精神を鍛える」ことなのかなあ
と想像した。



人前で話すことを何度も重ねて
自分なりに改良も加えていくうちに
初めの頃に感じていた恐怖は感じなくなった
ということは
そういうことだろうと思う。


最初は何もかもが怖かったけど
今は、「怖いことの量」がだいぶ減った、ってことなんだろう。



な。


なんちゃって。


あんな大きな恐怖と、
自分のこんなちっちゃい恐怖を比べるなんて
アホもいいとこなのだが


チキンハートもチキンなりに
ありんこもありんこなりに
ちょっとずつでも前に進もうとしてるわけだ。
なかなかすすまんけど。ふ。(涙

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「ほんとうに怖いことというのはなにか」
という話
そういえば、「インタビュー」で、あった。
それは妙覚寺のご住職との話に出てきた。
http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20100414/p2
これの「その2」の、後半。