石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

時間、くり返し。


昨日はとても面白いインタビューをしていただいた。
そのインタビューの中で



「最近は一般に、多読が奨励されてますが、
石井さんは同じ本を何度も読まれるんですよね、
それは、どうしてなんでしょうか」


というような質問を受けた。


確かに、何がいいのか、ワカラン



と思い、ちょっと黙り込んでしまった。





まあ
1度読んで記憶できないアホ
ということが前提にあるワケなんだろうが
でもそれ以外にもなにか
「くり返し読む」
ことの意味ってあるのだろうか。



あとで電車の中でつらつらとその答えを考えて
いくつか思いついたことがある。



たとえば
「わかる」と「できる」は
ちがう、ということがある。
読めるけど書けない漢字、というのと似ている。
1度読めば確かに意味は理解できるけど、
その概念や言葉を自分のものとして自在には使えない
ということがある、ような気がする。
だからたとえば
自分で文章を書くときに
何度も読んだ本の中に書いてあることは
自由に引用できるし、解釈も色々つけられる。
でも
1度しか読んだことがない本から
記憶を掘り起こして引用するのは至難の業だ。
それがどこに書いてあったかを思い出すことがまずたいへんだ。



私は本を読むとき
これは自分自身の思考の中に取り込めないだろうか
と考えながら読んでるフシもあるようだ。
だから
これはいい!
と思えた概念を含む文章は
くりかえしくりかえし読んで、自分のものにしたい、と考えてしまう。
私自身の思想になじむまで
それをこなれさせていく。
暗記する、というよりはそれこそ
オハダに塗り込むように、自分に一体化させていってるんではないか、
という気がする。
化合させて、消化していく。
あるいは、挿し木のように、根付かせる、という感覚もある、
そのプロセスでは、好きな1センテンスだけ、ではなくて
その周辺の全ての材料が必要になってくる。
これは暗記ではない。


たとえば、ある家に住むには
その家のことだけじゃなくて
その近所の地理を知り、その近所の人たちに接し、
店を覚え、水のありかを知り、
春夏秋冬がどう過ぎていくのかを体感してみる必要がある。
ある本をくり返し読むというのは
ある場所に一定期間住み着く、というのに似ているかもしれない。
1回読む本が「週末観光」なら
くり返し読む本は「留学」みたいなもん、といえるかもしれない。
本の中に、棲んでしまうのだ。
そうすると、
口移しに覚えたたんなる「言葉」が
新しい「言語」として自分の中に定着する。
そして
元々持っていた言語と、融合する。
イデアや思想が、自分のなかに、生き物のように生まれおちる。
本の中に乾燥していた蓮の種が
水分を得て地中から養分を摂り、やがて池の花としてひとつの風景をむすぶ。



本は、その書き手の意識無意識の反映だから
本を読むということは
書き手の心に接するということで
何度も読むということは
書き手の心に一度「なってみる」というくらいのことで
純粋経験、みたいなものなんではないか、という気さえする。




さらに
1回だけ読めばいいように書かれた本
というのと
時間をかけて精読してもらうように書かれた本
というのとは
べつな書かれ方をしてるんじゃないかと思う。
あるいは
長い時間をかけて書かれた本は、長い時間をかけてくり返し読まれるだろうし
短時間に一気に書き上げられた本は、比較的、
短時間で読むのに適している、というところがあるのではないか
などと考えた。



自分で書くものについて考えると
確かに、実際書いているスピードは
早いときの方が、脂がのっていて、ぎゅっと凝縮されてるような気がする。
ぱーっと書けたときのほうが、ナカミが濃い気がする。
でも
その、スピードにのせて書ける「ナカミ」は
じつは、結構時間をかけて蓄積されているものなんじゃないかと思うのだ。
ある考えがあって、それを書くわけで
書くときに色々発展していく、ということはあっても
それを思いつく土壌は、やっぱり、
時間の中でこなれて熟れてきたものだろう。
読んで、読み手の中に広がりが生まれて
何度も読み返して考えたくなる文章というのは
書き手の中でもある程度時間をかけて考え尽くされたもの、
なんじゃないかと思うのだ。



まあ
人間は意識のそとがわで、無意識みたいなところで考えてるところもあるようで
なににどれだけ時間をかけたか
などということは
簡単にはわかりはしないわけだ。
人生経験全体を傾けて書かれたものは
文章が実質的に2時間で書かれたとしても
人生全体で書いている、と言ってもいいはずだ。


さらに
同じ経験をしても
その経験をじっくり考えて、深めて、何らかの普遍性にたどり着こうとする人と
そうでなく、ただ経験して「おもしろかった!」とか感想を感じただけで次に進む人とでは
やっぱり
その経験について書くとき、「費やされた時間」は同じではないだろう。



もうすぐ、土星が動く。
昨日のインタビューではそのほとんどが
時間のことを話していたような気がする。



土星は時間の星だ。
時間の力を扱う星だ。



本を読むのは人と付き合うのにも似てる。
たとえば、性技をみがくには(下でシツレイ--;)
100人と1回ずついたすよりも、
1人と100回いたすほうが遙かに上達が早い
と、誰かが言ってたが
それと似てる。かもしれない。
もちろん、1人についての経験が全ての人に当てはまるわけではないが
(というか、その一人で充たされて一生が終わればそれが最高に素晴らしいだろうとも思うが)
「基盤」「軸」「基礎」ができるのだ。
よって立つところができる。
そこに戻っていけるところができる。
「差」を見極めるための基準ができる。
基準を持たずにたくさんの情報に接しても、
それらに色が見えてこない。


本当に充実した思考というのは
バイキング形式の食事のように無軌道にあれこれ盛りつけていくんじゃなくて
たとえば、懐石やフレンチのコースや「一汁三菜」の献立みたいに
なにかしら基本となる軸があって
そこから枝葉を拡げていくもんじゃないだろうか。
あるいは、軸をどこかで移し替えるとしても
元々あった軸がゼロになったりはせずに
接ぎ木するように融合していけるものじゃないだろうか。


くり返し、くり返し、同じ場所を歩く。
そうすると、その場所を包む全体が見えてくる。
何かを繰り返す、ということは
波のようでもある。
本の描く波形、自分という波。
くり返し重ねるうちに
波形が徐々に、変化する。



本は一見、時間が停止した無機物のようだが
実は
こちらが生きている限り
本も、生き物だ。




くり返し思いかえす痛みの意味、
人の胸に空いた穴。


精読、ということ。