石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

災難


とても大きな出来事が起こったり
非日常的なことが起こったりする、ことがある。
それはたとえば、
救急車や消防車やパトカーが来るようなことだったり
あってあたりまえのものが突然失われるようなことだったり
一番大事なものや、生活の基盤が瓦解することだったり
信用していた誰かからとても軽んじられたり傷つけられたり忘れ去られたりすることだったり
挙げ始めればきりがないほど
いろいろ、ある。



そういう出来事はにわかにはとても受け止めがたい。
何が起こっているのか理解できないし
どうして自分にそれが起こったんだろう?
という気持ちになる。
なんで?
という気持ちになる。
さらに「この先どうなるんだろう」という気持ちにもなる。
自分の力以外の大きな力で自分の人生が予想外の方向に向かうとき、
人はうろたえ、不安になり、自分を無力だと感じ、恐怖する。




なぜこんなひどいことがおこるのか。
それには理由があるはずだ、とか
自分は罰されているのだろうか、とか
自分の行動に何か原因があるのだろうか、とか誰もが考える。
「何の罪もない人が犠牲に!」
という嘆きをしばしば、テレビで目にするが
これは裏を返せば
「犠牲になる人には何か罪があるはずだ」
「突然起こる大きな出来事にもなにかしらそれを引き起こした原因があるはずだ」
と、いう前提があるということだ。
「何か悪いことをしたから、悪いことが起こったのだ」
という人間の直観は、大昔から変わらない。
だから
生贄やお供物を捧げて、天の怒りを静めようとする。
自分の罪を打ち明けて謝罪する「告悔」という行為があったりする。


たしかに自分に直接・間接な原因があって起こる大きな出来事というのも、ある。
でも、ぜんぜんそうじゃないことも、多々、ある。
それは空から落っこちてきてふりかかり、
自分の全てを台無しにする。
全てを奪ってゆく。



それをどう受け止めればいいのか、ということに人は悩む。
「気づかぬところで悪事をしたせいでこの大事が起こっていて
 それをとめない限りは状況はもっともっと悪くなるのではないか?」
と思ったりしてしまう。
原因があるはずだ
理由があるはずだ
意味があるはずだ
神様か魔物かの意志が働いているはずだ
と感じてしまう。


多くの宗教やまじないや占いはみんな
「なんでこんなことが自分の身にふりかかるのか?」
という人間の普遍的な、しかも、論理的には絶対に答えの出なさそうな問いに
全力で答えようとする行動なんだろう。



レクチャーが終わった後や、写真展のさなかなんかに
「最近、とても大きな出来事が起こって
 どうしたらいいかわからないような状態なんですが
 個人占いをしていただけないでしょうか」
とか
「今本当に一生に一度と言っていいほどの人生の転機なので、
 なんでもいいのでアドバイスをもらえないでしょうか」
というようなご質問をいただくことが、
これまで、本当に何度もあった。


だけど
「個人占い」は
レクチャーの場では、「おみやげ」以上のことはどうしてもできない。
もしやってしまったら、それを多くの方が希望されるだろうし
そこで公平に対応することは、
少なくとも今の私には、できないからだ。
だから「おみやげ」を用意する習慣がついた。
でも、前述のような
「なんでこんなことがおこるのか?」
という根源的な問いに答えるのは勿論
「おみやげ」の一行メッセージなんかでは不可能だ。
ちなみに、
今は「個人占い」に属することは
ごくたまにデルフィーやザッパラスでやる対面と
ほしジュエリーシリーズ(今はお待ち頂いている方のみにやっている、新規受付は休止中)
だけだ。
後はレクチャーの「一言メッセージ」しかしていない。
更に言えば、私には具体的な対策や予言のようなことは、できない。
普通、占いに期待されるような「こうなりますよ」という占いは
私は、テクニックとして「できない」のだ。
そういう占いをしてないからだ。そういう能力がないのだ。
星占いでそういうことができない、というわけではない。
星占いで「予言」をしようとする人もたくさんいる。
でも、私はそういうことは、していない。しようと思ったこともない。
星占い以外の、霊感とか透視とか前世を見るとかも一切、できない。
だから、何の役にも立たない。




だが、そういう、
人生の猛威に触れたときのためにこそ
「占い」みたいなものがあるんじゃないか!と思う。
そういうときこそ役に立たないなら
占いなんか要らないじゃないかと思う。
レクチャーの放課後に
「今どうしても苦しいのでなんとか見てほしい」
と言われて
「個人占いは、この場では、申し訳ないですが、できないのです、すみません」
と応えるしかないとき、
役立たずのうしろめたさでいっぱいになる。
ほんとうはこういうことに応えるのが占いなのに。と思う。
その方はそんなにもたいへんな時にもかかわらず、
この場に足を運んでくださったのに、と思う。
何かどんな小さな光でもいいから探しに来よう、と思われたのかもしれない。
占い師がいるんだから、もしかしたら占いで指針をくれるかもしれない
と思われたのかもしれない。
そういう、誰もが切羽詰まった時に抱く気持ちに
その場で応えられない自分が情けない。




ただ、
私は占いをしていて思うのだけど
日常的になんとなくうまくいかない、とか
これから誰かに出会えるだろうか、とか
そういうことなら、
「いいことがありますよ」とか「このいやなパターンの原因はここかもしれませんね」とか
そんなことが言えるかもしれない。
でも
そんなにも大きな、
ずっと大事にしていたことを失うとか、
誰かの死に遭遇するとか、
突然の怪我や大きな病気や警察沙汰など、「日常」の外側に出るようなこととかは
もう
「幸運」「不運」
などという薄っぺらいスケールでは捉えきれないんじゃないだろうか。
「この状況は悪くなっていっている」とか
「これはいいことに繋がっている」とか
そんな言葉ではぜんぜんぴったりこない。
言葉というのは、「とらえ方」「考え方」に直結しているので
そういう、「いいこと」だの「わるいこと」だのという「占い言葉」なんかで取り扱ってはならない
もっとずっとおおきなもののように思えて、仕方がないのだ。



もっとそれは壮大な出来事で、
畏れ多い出来事なんじゃないかという気がするのだ。
それは神仏に対して畏れ多いとかいういうのではなく
なんというか
そんなにも大きな出来事を経験しているその人自身の大きさ、偉大さに対して
畏れ多い、という気がするのだ。


大きな出来事を体験している人は
そのなかで、自分でも意識しないうちに
いつもとは違う力を使っている。
この「いつもとは違う力」というのは
「実力」とか「才能」とかいうのとは全然違う。


大きな出来事を自らのこととして体験しつつある人が無意識に使い始める力、
それを呼ぶのに
「魂」だの「心」だの「愛」だの「知恵」だの「徳」だの「尊さ」だの
「仁」だの「人間力」だの「仏性」だのという言葉が生まれたんだろう。
その人は苦しみ迷いながら、その人のとても根源的で偉大な力を使っているのだ。
苦しみ迷うということ自体がその力の表れだし
「何でこんなことが起こるのか?」という問い自体、
その力を起動することと繋がっているんじゃないかと思う。


そうした力を使いつつあるその人に対して
「いいこと」だの「わるいこと」だの
「いい方に向かう」だの「試練」だのといううすっぺらい占い言葉を触れさせるなんて
神聖冒涜のような気がしてしまうのだ。



たとえば
「激しい痛みがあり、大量に出血して、
 一日二日は苦しまねばならない、終わったら身体はとても弱る、
 時には命にも関わるような危険もある出来事」
と聞いたら「悪いこと」みたいだけど
「お産」
と聞いたらそれは、「いいこと」に分類されるだろう。
でも人が一人生まれてくるなんて
いいこととかわるいこととかの範疇はもう、軽く超えてしまっていると思う。
人が生まれて、人は死んでいく。
赤ん坊が生まれた瞬間に、その子が老い果てた先の未来の死がひとつ、
否応なく発生している。
ここにはもう、幸運も不運もない。
そんな現世的な境界線や価値観の世界から遠く離れている。
ただ「大きな出来事」と言うしかない。
人々はそれを受け止めるために
冠婚葬祭という大仰な儀式を発明した。
派手な儀式でもやらなければ腑に落ちないほどの変化がそこにあるというわけだ。


お産以外にも、破壊的プロセスを通じて生み出されるものは多々ある。
リストラから新天地をきりひらく人もいる。
災害の中で出会うカップルもある。
事故や事件がなんらかの人生のスイッチになることもある。
でも
それは、自動的にそうなるわけではない。
あくまでそれは結果でしかない。
結果がその災難を引き起こしたわけではない。



人は
「新しいものが生み出されるために、こうした大きな出来事が起こるんだろうか」
とも考えようとする。
これは因果の「因」が、未来にある、
とするような考え方だ。
確かにそういう考え方でもいいと思う。
でも
私はどうも、それも、そうとは言いたくないところがある。


なぜなら、
たぶん、未来も過去も
「今この瞬間」
によってその意義や価値が決まるからだ。
過去にこれこれがあったから未来はこうなる、とか
未来にこういうことがあるために過去にこんなコトがおこったのだ、とか
そう考えてしまうと
「今現在」に焦点が合わなくなる、という気がするのだ。


たぶん
「今現在」を自分に可能な限り納得のゆく状態にすることで、
未来と過去が「意味をもつ」ようになるんじゃないだろうか。
それは
手持ちのカードで最善の勝負をする
ということだ。
手の中にないカードのことを考えて
それが「ない」ことの因果関係を云々するのは
「現在」を生きることからは少しだけ、離れている。



現在と過去を比較して
「過去のほうがよかった、過去に戻りたい、なんで今は過去のようではないのだろう」
と思ってしまうと
辛くて仕方がなくてその理由をどこかにもとめたくなる。
「今辛いのはきっと未来にいいことがあるからだ」
と思ってしまうと
わるくするとそれを待ち焦がれるばかりの日々でやっぱり
「早くいいことが起こらないかなあ」「こんなはずじゃないのに、どうなってるんだろう」
という苛立ちが募る。



このできごとはいいことか、わるいことか
これからどんどんいいことがあるのか、それとも悪化するのか
自分がなにか悪いことをしたせいでこうなったんだろうか
だれのせいで、なんのせいで、こんなことが起こるんだろうか

人は考える。
これは古代からそう考えるようになっている。
でも
だれのせいでもないし
いいことでもわるいことでもないし
おこってしまったことはどうしようもないし
がんばってもどうしようもないことも、ある。


だけど
そこでも人間は「なんとかしよう」とする。
それで
なんとかしていって
いつか
自分の生活を建て直していける。
その可能性というものを
自分のなかにだれもがいくらか、持っているんだと思う。
自分は自分が思うほど
頼りにならないものではないと思う。
だから
起こった出来事に対して、剥き身でちゃんと闘っていけると思う。
なぜなら、上に述べたような
「いつもは使わない力」がその人に、ちゃんとあるからだ。


だれだって全然まもられてもいないし未来の幸福を約束されてもいないけれど
それでも
なんとか「今現在」を生きているし、
だれでも「今現在」をできるだけよくしようとしているし
そうしている限り
起こった出来事が単なる悪いことだけの災難だなんて思えない。


とはいっても
本当に悲惨な出来事や救いがたい出来事というのも
どうしても世の中にはある。
そのまえにはもう、人間は跪いて祈るくらいしかできない。
祈ることもなくしてしまって
抜け殻のようになってしまうこともある。
本当の悲惨というのはある。
人間の力の届かない時間というのが、あるんだと思う。



でも
それ以前の時間に立っているのなら
たぶん
その出来事を意味あるものに変えられるんじゃないだろうか。
そんな出来事でも起こらなければできなかったこと

未来に実現できるんじゃないだろうか。
そうしようとするしか
生きていく方法ってないんじゃないだろうか。


以上
昨日の新幹線からずっと頭の中でぐるぐる考え続けていたこと。



まあ、いつも同じようなこと考えたり言ったりしてるワケなんだけど(ワンパターン orz