石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

恬淡


「諦める」
っていうことは
絶望とか悲嘆とかじゃなくて
覚悟とか決意とか、そんなのに似てる。
あるいは、
認めるとか、自覚するとか、そういうことにも似てる。
手が届かないことを認めるとか
自分のものにはならないことを理解するとか
そういうことだ。



失わされたり裏切られたりするのは「やられる」ことで受け身だけど
あきらめるってのは「やる」ことで能動だから
痛いとか苦しいとかじゃなくて
もっとずぶとくてたくましいはずだ。



潔い
っていうのは、なんだか最近、しっくりこない。
洗い流してその濁った水はどうしちゃうんだろうって思える。
まるで
ゴミを夢の島に送り出したらもう関係ないって言っているみたいな感じがする。


でも
諦める

そうじゃない。
何かに手が届かなくても
それでも、
まだ自分の足で歩いていける、と、うべなうだけのことだ。
対象と自分との距離をムリヤリどうにかするワケじゃない。
ただ、そっちに手を伸ばさないって決める、というだけのことだ。


「諦めたはずなのに気になる」
っていうのは
これは仕方がないんだろうなとも思う。
諦めるのは行為で行動で意志だけど
気になるっていうのは、感情だからだ。
感情が意志にすぐついてくるとはかぎらない。
自分の中にはいくつもの機能があって
それら全員が同じ方向を向いてくれることは、なかなかない。
外に出たいのに具合が悪くて出られなかったり
寝ちゃいけないのに眠くなったりするのと同じだ。





不完全なものと関わるには
自分が不完全だということを認めて諦めなきゃいけない。


助けてもらおうとするときは
助けてもらえなくても相手を恨んではいけない。


ハシゴを外されたら上に上るしかない
動機のハッキリしない共犯者と組んではいけない
だれかが優しくしてくれたからって
それを好意とカンチガイしてはいけない


そうやって
徹底的に「良さそうなもの」「ありそうなもの」の裏を掻いていって
真っ黒に塗りつぶしにかかったら


完全に真っ黒に塗りつぶれた時点で
そんな「完全真っ黒」が、ぜんぜん「現実的」ではないのがわかる。


全て想像がつく限り論理的に徹底して否定していった果てに
ふと、世界を見渡すと
そんな真っ黒に塗りつぶれた状態は「現実には存在しない」ことがわかる。



未来にはなんの幸運も約束されてはいないし
どんな幸せもまもられてはいないけれど
そんな不確かさを全て暗さの方に押し倒してみたとき


やっぱり
すべてがそう、では、ありえない、ということが
どうしてもでてきてしまう。
四方から饅頭を押しつぶした時みたいに
あんこみたいに、
ほんとにちいさな光がじわりとにじみ、漏れ出てしまう。



そんなふうにはもちろん、思えないときもある。
全てが真っ黒で残酷なように思えるときも、どうしてもある。


でも、つめたいリアリズムで黒く黒く塗りつぶしていったその果てには


そんな光を、いつか遠くに微かに見よう。




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※ 文中の「共犯者」という表現は
  あくまで比喩表現です。
  自己満足的なポエム(爆)っぽくお受け取り頂ければと思います。