石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

インタビューその4・Dr.可児さん


新潟「上古町商店街」の人々にインタビュー、のシリーズその4は
レストラン「Dr.可児(かに)」のオーナーシェフ、広瀬さんにお願いした。




こちらも、ヒッコリースリートラベラーズの迫さんに紹介して頂いたのだが、
こちらのお店について、私はうっすらと記憶があった。
たしか2度目の新潟旅行の時、
白山神社の近くで大雨に降られて、
雨を避けるために飛び込んだのが、上古町商店街のアーケードだったのだ。
ひとまず雨宿りに、角の喫茶店に飛び込んだ。
そこは建物の二階にあるお店で
そのとき、この写真を撮ったのだった。

http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20071004/p1
↑その日の記事はこれ。


そのあと、私は喫茶店を出て、
相変わらず降り続いている雨を横目に
アーケードを歩いていった。
すると、この喫茶店から出てすぐ、数十歩歩いた辺りで
変な看板を見つけたのだ。
それが、「Dr.可児」さんの看板だった。
なんでレストランなのに「ドクター(Dr)」なんだろう
と不思議に思い、それで、記憶に残った。
ビールとワインのお店、と書かれていたので
それも心に残る原因だったのだろう。
ビールとワインがなかったら
私の人生はどうなっていたかわからない。
一番頼れる友達といっても過言ではない(暴言)。


もとい。
レストランの方にインタビューをするからにはまず、
ごはんを食べたい!
という単純な発想で
私は、インタビューの前々日、夕方に
一人でDr.可児さんにうかがった。


お店に入ると、奥様がいらした。
前回、インタビューのお願いをしたのも、この奥様にだった。
Dr.可児さんは、広瀬さんと奥様の2人で営業されている。
奥様は、瞳がとてもきれいにひかる方で、
お話ししていると「森の中で耳を澄ます」というイメージが湧く。
森の中にはいろんな声がするし、
木々のざわめきなど、様々な音が鳴っている。
その中で、じっと耳を澄ませて、
ノイズの中からある1つの声やメッセージを聞きわけようとするような、
そんな、「聞く」ための弦が、ぴんと張られている感じがするのだ。
その、弦のようなものは、とても中立的で、透明な感じがする。
私たちは普段、誰かの話を聴くとき、無意識に
「相手はこんなことを言うだろうな」
と、相手が言葉を発する前に予測して、
その予測という「型」にはめることで
大まかな意味を把握する、ということをやる。
これがすなわち「聞き流す」やりかただ。
たぶん、広瀬さんの奥さんは、「聞き流さない」人なのだ。
「聞き逃さない」ではなく、「聞き流さない」のだ。
「聞き逃さない」は、怖いような、緊張した、押しつけがましい感じがある。
でも、広瀬さんの奥さんの「聞き流さない」感じには、
そうしたいやな感じは微塵もなくて、ただ透明な感じがするのだ。
そして、奥さんが笑顔になったときは、
森の中で小鳥の巣を見つけたみたいにうれしくなる。


奥さんにご挨拶したら、先日、インタビューの依頼にうかがったことを
すぐに思い出して頂けた。
ああ、インタビューはいつでしたっけ、明後日ですよね?
そうです、今日は食事させて頂こうと思って来ました、
と言って、ちょっと緊張しながら席に着いた。
今日は緊張しなくてもいいんじゃないだろうか
と自問したが、
緊張とは、すべきかすべきではないかとは関係なく「起こる」もので
一種の「症状」なんじゃないかと思う。
病気だ。
たぶん世界中を探せば
「緊張」という単語を持たない言語があるんじゃないかと思う。
なんかこの「緊張」は、
生まれ持ってそうなってるわけじゃないような気がする。


「ごはん」は、
白いごはんとローストポークのセットをお願いした。
デザートにシフォンケーキがつく。
さらに、ここではなんと言っても
スワンレイクビール・生
が飲めるのだ。


スワンレイクビールは、新潟の地ビールだ。
ちなみに、日本で最初に地ビールが出たのは、ここ新潟なのである。
エチゴビール」は、普通にコンビニなどでも売っている。
私は新潟に行くたびに、新潟駅の売店で
エチゴビールの「ピルスナー」と「ビアブロンド」を一本ずつ買わないと
なんとなく消化不良な気がする、くらい、ウマイ。
スワンレイクビールは、またべつの会社のものだが
一度、あるお寿司屋さんで、瓶ビールを飲んだことがある。
これがすばらしかった。
といっても私は
ネス○フェゴールドブレンドとブレ○ディの違いがわからないくらい
「違いのわからない女」なので
味覚には自信はない。
でも、自分の味覚に自信はなくとも
世界が認める味ならば、安心して持ち上げられる。
http://www.swanlake.co.jp/main/news_01.htm
こんなのを読んだら、つぎに飲むときは一層ウマく感じられるにちがいない。


で。
幸せなことにドラフト(生)のスワンレイクビールを
私はここで、味わうことができた。
新潟市内でもこれが飲めるお店はあまりないらしい。
白っぽくてきめ細やかな冷たいビール。
ビール天国・ロンドン帰りの私の口にも、
文句なしに美味しかった。
ローストポークも、白いごはんに不思議に合っていて
自家製のシフォンケーキまで、とても満足だった。
あんなに緊張していなかったら
ビールはあと三杯飲んだと思う(爆


たまたまお客さんが途切れたので
広瀬さんがキッチンから出てきて、
お話をして下さった。
この時点で広瀬さんとは、初対面、ということになる。
今回の企画展のことや、インタビューの経緯など、
直接ご説明していなかったので、私は、その辺りを説明した。
一杯飲んでいたので詳しい内容は記憶していないのだが、
インターネットのことや、ブログのことなどについて
軽く「討論」のような感じになった。


世の中には、
議論や討論の上手な人と、
そうでない人がいる気がする。
相手が全面的に屈服しないと気が済まない人や、
自分の意見が容れられないと機嫌が悪くなってしまう人、
相手の話をまったく聞けなかったり、
最初からケンカ腰の人なんかもいる。
こういう人たちは、議論好きでも議論下手で、
最後には自分も相手も気分が悪くなって終わってしまう。
インターネットが普及して、
「自由に討論」できる世界になった、と言われているけど、
もともと討論や議論の習慣がない人々がそれをやったとき、
実に残念な雰囲気で終わってしまっている場面を、しばしば、目にする。
最後は罵声の浴びあせあいみたいになったり
「あいつはオカシイから相手にするな」みたいになったりする。
議論や討論は、言葉を闘わせる技術も当然要るのだろうが、
それ以上に、それに臨むための精神論というか、
感情をきちんと自分で管理し、感情から距離を置く技術
みたいなものが必要なんじゃないかと思う。


広瀬さんと話していて、私はとても楽しかった。
その楽しさには、たとえば、
囲碁や将棋をかこんでいるような
軽い緊張感と高揚があった。
というのも、
広瀬さんはネットにはわりと懐疑的なのだが
私がこのインタビューを掲載するのは
まさにそのネットの、悪名高き「ブログ」だったからだ。
ネットは見るし、メールも使うけど、
ニュースくらいで、あとは見ない、というのが広瀬さんのスタンスだった。
でも、私は広瀬さんにインタビューをお願いしたかったので、
「OK」してもらうには、
ネットも、たいしてわるくない
ということを伝えなければならなかった。
少なくとも、そう感じていた。
で、広瀬さんは実に明るくさらりと、
でも、ゴマカシも嘘もなく、おそらくかなり正直に、
いろんなツッコミを入れて下さったわけだ。


私は、とても感情的な人間なので、議論は、正直、苦手だ。
感情の震えが手に出てしまったりする。
ネットの上でなにかしら、議論に近いやりとりが発生する時は
自分の感情の様子をよく確かめてからやらないと
たいてい、失敗する。
でもこのときは、ビールの加勢もあったかもしれないけど、
まったくそういう不安感や激情のようなものを感じなかった。
たぶん、広瀬さんは、正直に相手と違う意見を言うことが
上手な人なのだ。
相手の気持ちを逆なですることなしに
相手にストレートに反対意見を述べられる、というのは
かなり特別な才能だと思う。
どうやればそれが可能なのか、私にはわからなかったけど、
でも、広瀬さんはそれをいかにもさらっとやったのだった。


で、私は大変一生懸命話をして、
その話を和やかに聴いて頂き、
インタビューについては再度、OKを確認して、
お店をおいとましたのだった。

        • -


2日後、インタビュー最終日。
この新潟・インタビューツアーは
2月だというのに、春のような陽気だったが
最終日だけは、つめたい雨が降っていた。
お昼時も過ぎていたが、お店に入るとお客さんが食事をしていた。
奥にあるスクリーンに、ちょうど、
バンクーバーオリンピックの目玉、
キム・ヨナ選手から浅田真央選手の演技が終了したところが
映し出されていた。
得点を見て、浅田選手の銀メダルが決まり、
彼女が泣いている姿が映し出されていた。


広瀬さんの手が空くのを待つあいだ、
お店の中を見回してみた。
最初にうかがったとき、目に飛び込んできたのが
お店の奥の大きな時計である。
大きな古時計」というあの童謡を彷彿とさせる、
ちいさな子供がかくれんぼできそうな時計だ。
華美な装飾はないが、優雅でどっしりとして
そこに「ある」のではなく「いる」と言う方がふさわしい感じがした。


やがて、広瀬さんがキッチンから出てきて、
私の前に座り、
この時計にまつわる話をしてくださった。


そのお話をきいて
この時計は、このお店の「もうひとつの心」のようなものなのだ、と思った。


広瀬さんは30年ほど前、
奥さんと二人でドイツに住んでいた。
ドイツでチェーン展開しているレストランで働いていたのだ。
そのレストランは、
日本の醤油メーカー、キッコーマンが経営していた。
広瀬さんは大学を卒業後、
就職とほぼ同時に、そのお店に転勤になったわけだ。


広瀬さんが住んだのはデュッセルドルフという街だったが、
そこから30キロほどの距離にあるケルンにもお店があって、
ヘルプに入ることがあり、そこで
「可児先生」と知り合いになった。
可児先生は、元々はお医者さんで、
戦前、国から派遣されるような形でドイツに行き、
それからずっと、戦争をへて終戦以降も、
そこに住み着いてしまったのだった。
現地の特派員のような、取材や情報提供の仕事もしていたそうだ。
ドイツにいたあいだの、可児先生との思い出について
「楽しかったですね」
と広瀬さんは言った。
「現地の従業員や友達とみんなで、可児先生の家でパーティーしたり、
 あと、テニスをしたりね。
 当時はビヨンボルグとかマッケンローとかが出て、
 ちょうど、テニスが流行り始めた時だったから」


可児先生の写真を見せて頂くと、
アインシュタインみたいな白髪と髭を持つ、
ちょっとユーモラスな感じもある、
恬淡とした印象の老人がそこに写っていた。
目の表情に鋭い、少しシニカルな知性がうかがわれるような気がした。



可児先生。



さらに、広瀬さんはべつの写真を取り出した。
「これは、可児先生の奥さん」
そう言われて、見ると、
上品であたたかな面輪のドイツ人女性が写っていた。
その隣に、子供達が写っているセピア色の写真を並べて
「これが、その時計」
と広瀬さんが言った。
そこに、お店にあるのとそっくりそのままの古時計があった。



あの大きな時計は、
可児先生の奥さんであるエヴァさんの家にあったものなのだ。
子供達のなかに子供時代のエヴァさんもいて、
その後ろには、大きなもみの木がある。
もみの木には、いろいろなオーナメントや、蝋燭が立てられていて
蝋燭には、ほんものの火が灯されているように見えた。
戦前の、ドイツのクリスマスがそこに映し出されていた。
そして、それをじっと見守っていた時計が
今、ここにあるのだった。


お店の中の雰囲気は、
新しすぎる感じではないが、古い感じでもない。
木のあたたかさの感じられる、白い色調のお店で
いろんなかわいいものや美しいものが置いてあって、
コクトーピカソのポスターが架けられていて、
清潔な中にお店としての「生活感」がある。
そんな、ある意味とても自然な生活の時間の中に、
この、戦前から時を刻み続けている時計がどっかりとあるのだ。
普通に考えれば、時計がちょっと浮いて見えてもおかしくない。
でも、この時計はここにあって
特段新しすぎる感じも古すぎる感じもなく、
今この瞬間の空気に、すんなり溶け込んでいるのだ。


広瀬さんは、この時計を
「日本に帰るとき、先生に『下さい』って言ってもらってきたんです」
と説明した。
しかしこれはどう見ても
「下さい」で「はい」ともらえるような代物ではない。


どうして可児先生は、
美しく、おそらくとても良い家に育った奥様の嫁入り道具を
広瀬さんに「はい」ってくれたのだろう。
広瀬さんはフラウ・可児に会ったことはない。
というのも、広瀬さんが可児先生に出会った頃には
エヴァさんは既に亡くなっていたからだ。


広瀬さんが、自分の店の屋号にしようと思うほどに
可児先生を好きだったのと同様、
可児先生もまた、広瀬さんをとても気に入っていたに違いない。
どうして、奥様の形見をあげてもいいと思えるくらい気に入ったのかなあ
と考えて見て、
なんとなく、得心がいったことがある。
それは、私が最初に広瀬さんと、ネットについて話し合ったときの
あの、碁将棋を囲むような楽しい討論ができる点と
もうひとつ、
広瀬さんは、その静かで淡々とした、
ほとんどクールなインタフェースとは裏腹に
物事に非常に「熱い」関心を持つ人だ、という点だ。
異国であるドイツに派遣されてそのままそこにいついて、
戦争という極限の状況下で様々なものを見てきたであろう可児先生のような人にとって、
こういう人と友達になったら、楽しくないわけがない。
たとえば、私が感じた広瀬さんの
「物事への関心の強さ」と、
「反対意見を恬淡と述べられる」という点をためしに裏返してみると
友とするには非常につまらない人間ができあがる。
ものごとに無関心な人間と、あと、自分の意見を持たない人間だ。


おそらく、広瀬さんはこの時計に感動したのだろう。
強い関心を寄せて、この時計の「物語」を証明する写真を手に入れ
大切に保管してきたのだ。
つまり、この時計の持っている「価値」がわかったのだ。
その「価値」は金銭で換算できる価値ではなくて、
物語の中の価値だ。
歴史的価値、というのとも、これはちょっと違っている。
これに関わった人々の人生や、気持ちや、様々な体験が、
歴史的時間に包み込まれて、
この時計の魂のように生きている。
私は、学生時代に先生からくり返し教わった言葉を思い出した。
「生活を生産し、再生産する」。
歴史は社会的な大事件や偉大な人物ではなく
人間の生活でできている。
クリスマスの思い出や、家族の表情でできている。
広瀬さんと可児先生は
この時計の「価値」を共有したのだろう。
つまり
その価値がわかったから、もらえた
というのが理由なんだろうな、と想像した。
この「価値」は、
妙覚寺の吉田さんが語って下さった「価値」と
同じ意味だ。


このお店は、開店当時、この場所にはなかった。
最初に開いたお店は、西堀の方にあったが、
二階のべつのテナントから出た火で、火事に遭ったのだ。
その際、広瀬さんはなによりもまずこの時計を救出した。


歴史的遺物は眠ってしまうが
この時計はまだここで、生きている。
生きて、新潟の人々の生活を見つめ続けているのだ。



広瀬さんは三年間、ドイツで過ごし、
そのあと日本に帰国した。
日本に帰ってきて、10年くらいしてから、
ベルリンの壁が崩壊した。
帰国後、ドイツには一度も行かなかったが、
この歴史的な事件をニュースで知り、
広瀬さんは「今、ドイツに行ってみよう」と思い立った。
せっかく、以前ドイツにいたのだし、
この歴史的な瞬間を肌で感じてみたい、と思ったのだ。


ドイツにいる間、ベルリンには行ったことがなかった。
でも、行ってみるとそこは懐かしいドイツだった。
すでに東ドイツに行けるようになっていたが、
「チェックポイント・チャーリー(東西ドイツの境界線上にあった検問所)」
を通るときはやはり、ドキドキした。
壁の向こう側に、
「昔と同じ」顔と、「知らなかったもうひとつの顔」を見た。
ベルリンオリンピックの時に使われた競技場に行ったら、
 ウイナーズプレート、というのがあって、
 そこに勝利者の名前が書かれてるんです、
 有名な『マエハタがんばれ』の、水泳の前畑とか、
 日本人の名前もいくつか刻まれてるんですよ、
 すごいなーっておもいましたね」


そのあと、広瀬さんは
ドイツにいた当時、習っていた空手の先生を尋ねて、
オーストリアに行った。
「空手も習ってたんですか?」と聞き返すと
「ヒマだったんでね」と返された。
ブルース・リーが人気を博した頃、
たくさんの空手や柔術の先生が日本から招聘された。
そしてそのまま住み着いてしまった人も少なくないらしい。
先生は、オーストリアリンツという街に住んでいた。
そして、訪ねていった広瀬さんを、
リンツからほど近い、ある場所に案内してくれた。
そこでの経験を、「すごくきつかった」と広瀬さんは言った。


「そこは、ナチスの収容所でした。
 リンツの近くには、ヒトラーの両親の墓があったりして、
 ナチスにまつわるものがあるわけです。
 収容所は小高い山の上にあって、
 霧がかかって、すごい雰囲気のところでした。
 中に入ると、人を収容していた部屋がそのまま残っているし、
 人間を焼く窯が残っていたり、
 「蚕(かいこ)棚」みたいな囚人用のベッドがあったりね、
 それを見ていて、
 自分たちは何でこんなに自由なんだろう、と考えたり、
 日本は平和だな、と思ったりしましたね。
 リンツはほんとうに、すごかったですね。」


恐ろしい思いをした、と、広瀬さんは言った。
でもその後に、広瀬さんはこう言った。


「またもしドイツに行くんだったら、
 こんどはアウシュヴィッツを見てみたいですね」


恐ろしい思いをしたなら、
それでもう充分、と考えるのが普通じゃないだろうか。
広瀬さんのこの、マストハウゼン強制収容所訪問の体験談は、
心底恐ろしかった、という感触に満ちていた。
でも広瀬さんはその後で
アウシュヴィッツを見てみたい」
と言った。
私はちょっとびっくりして
アウシュヴィッツですか」
と聞き返した。
広瀬さんは、それにこう答えた。


「見てみたいですね。
 本物の霊気、というか、そういうものを感じてみたいですね。
 肌で感じてみたい。
 怖いもの見たさみたいなのもあるんだろうけど、
 そうじゃなくて、本物というのを見たい、という気がしますね」


この「見てみたい」という言い方には、
物見遊山的なものもなければ、
物珍しさを求める感じも、微塵もなかった。
ひどく恐ろしい思いをしたけれど、
さらにもっと強いものがあるなら、それを感じてみたい。
純粋に透明な好奇心と、
独特の「強い関心」がそこにある感じがした。
この「関心」を、広瀬さんはあの時計にも傾けたのかもしれない。


関心を持つ
って、どういうことだろう
と私は考えた。
純粋に「関心を持つ」ということがあるのだ。たぶん。
私は、「言葉にする」という前提で関心を持つ。
でも、人間は元々、発信するかどうかとは関係なく、
なにかに「関心を持つ」ようにできているのではないか。


私は、チェ・ゲバラの生涯を描いたある本にあったセリフを思い出した。
「犯罪的に無関心」。
それは、上流階級の人々が、貧困や社会不安に対してとる態度を表現したフレーズだった。
たぶん、社会運動を起こさなくても、
なにかの活動に身を投じるのでなくても、
儲からなくても、成功につながらなくても
なんの目的もなくただまっすぐ「強い関心を持つ」ということが
人間には、起こりうるんだ、と思った。
それは新鮮で、とても素晴らしいことのように思えた。


「あと、行ってみたいところは、
 鹿児島の知覧っていう、特攻隊の基地があったところですね、
 なにかちょっと行ってみたいです。
 あと、呉の「大和ミュージアム」なんかも行ってみたい、
 これは、ものづくりの集大成、みたいな発想かもしれないですね、
 それを見たいという。
 まあ、人間の命を軽視しすぎてるけどね。それにしても、
 見てみたいっていうのがありますね」


広瀬さんの言葉には、
ねちっこさやセンチメンタルな水分が一切無いのだが、
話に出てくる場所や人や、物事は、
圧倒的な「物語の力」を持つものばかりだ、と思った。
さらっと出てきた固有名詞がみんな、
よく噛み砕いてみると、
激しい涙や喜びや人生の瀬戸際のようなものでできている。
ぜんぜんさらっとしていない。
過去の物語とはいえ、
ほとんど人を飲み込むような力を持った場所やできごとに、
広瀬さんは惹きつけられている。



広瀬さんは、ソウルオリンピックのあと、
マラソンに没頭したことがある。
中山竹通が4位に入賞し、
それに感動して、走ってみた。
10キロくらい走ったら、何となくフルマラソンも行けそうな気がして、
その翌年、ホノルルマラソンに出走し、完走した。
さらに、水泳や自転車もやってみようか、と思い立ち、
トライアスロンにも挑戦した。
一時は、ボクサーのような身体になったらしい。


ランナーズハイっていうのがあるでしょう、
 その世界を見てみたい、って思うんですね。
 疲れなくなるんです、息が乱れないし、高速で走れるようになるんです。
 でも、その状態にできるようになるまでは、
 それこそ吐くほどの練習をしないといけない。
 でも、『その世界を見てみたい』って思うとね、
 やるんですよ」


広瀬さんは、いろんなことに興味を持つ人であるらしい。
でも、その興味の持ち方がいかにも、鋭くて熱い。
その世界が持っている魅力の一番のところを、
ほんとのところを、見てみたい
という強い意志が、広瀬さんの関心を貫いている。


私が最後に、


「今一番、願っていることとか、叶えたいことってありますか」


と質問したら、
広瀬さんはこう応えた。


「チェロを習ってるから、上手になりたいなと思ってますね、
 それをきっちりとやりたいな、と。
 演歌とかフォークソングとか、そういう曲で何か、
 きっちり弾けるようになりたいと思ってますね」


数年前、「新潟ジャズストリート」というイベントで、
このお店を貸し切ってライブをやったとき、
ある女の子がチェロを持ってきて
ピアソラを演ったことがあった。
それを聴いて、「あ、いいなあ」と思って
それで始めたのだ、と、広瀬さんは言った。


私がびっくりしていると、
広瀬さんはちょっと冗談めかした感じで、
でもびしっとした調子で、
「刺激を求めていかないとね、
 それで、進化していかないと!」
と言った。


私は書くこと以外に、ほぼ、なんの趣味もない。
楽器もできないしスポーツも苦手だし、
「趣味はなんですか」と訊かれると、
何も応えられなくなってしまう人間だ。
そういう私から見ると、
広瀬さんの
「何かをはじめて、それの『本当の世界』をある程度みてみる」
という力は、どうにも手が届かないパワーだ、という気がした。
たとえば、チェロの演奏を観て「いいな」とおもうことはあるけど、
「自分にもできるかも」とは、思えない。
あんな大きなもの、気軽に始められない。
安いのは中古で4-5万円のものからあるけど、
メンテナンスにも金はかかるからね、と広瀬さんは笑った。
大きなチェロが部屋にあるだけで
相当な圧迫感があるだろう。
簡単に三日坊主覚悟でできるようなものじゃないと思うんだけど、
広瀬さんは、「いいな、と思って」始められるのだ。
そしてそれは、ぜんぜん気軽ではない。
やるとなったら、「本当」がどこにあるのか、
それを感じてみたい、のだ。


広瀬さんは、石をひとつ、見せて下さった。
ベルリンの壁の一部だった。
そこに「本当の世界」の、ひとつがあった。






      • -




インタビューのあと、
お店を出て、迫さんのところにちょっと寄り、
それから駅に向かい、
新幹線に乗って、東京に帰った。


そして帰ってきてから、撮った写真を整理していて、気がついた。


お店の看板だ。



「Dr.可児 & Frau Eva」


と、ある。
フルネームはそこまでなのだった。
この写真を見直すまで、私は全く気づいていなかった。



大きな古時計」の歌詞に
こんなフレーズがある。


「きれいな花嫁やってきた その日もうごいてた」


これは、原曲の歌詞ではこんなふうになっている。


And in childhood and manhood the clock seemed to know,
And to share both his grief and his joy.
For it struck twenty-four when he entered at the door,
With a blooming and beautiful bride.


(おじいさんが子供の頃から大人になるまで
 時計はおじいさんのことをなんでも知っていた。
 そして、喜びも悲しみも分かち合ってきた。
 だから、おじいさんが青年だったある日、
 花のように美しいお嫁さんと一緒にそのドアを開けたとき
 時計は喜びのあまり、24回も鐘を打ち鳴らした。(石井ゆかり超訳))


可児先生には、ドイツに渡る前、
日本に奥さんがいたけど、
ドイツでフラウ・エヴァと出会って、
日本には死ぬまで戻らなかったのだそうだ。


時計は、時間をこつこつと一定のリズムで刻む。
このリズムは、客観的なものだと考えられている。
でも、人間の時間は、そんなふうに一定には刻まれていない。
物語があり、価値があり、つながりがあって、コスモスがある。


私が、
この時計は、お店の「もうひとつの心」なのだ
と思ったわけが、
この時計とお店を見たことのない皆さんにも多少、
感じ取っていただけたんじゃないかと思う。

        • -


インタビューが終わったときちょうど焼き上がったので
とらせて頂いた。



焼きたてのシフォンケーキ



煩悩!