石井ゆかり@筋トレのブログです。
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もんだいなくない。


「マスメディアが科学的根拠のない占いを取り上げても問題ない理由」
http://www.kochikoma.net/blog/2010/01/post-c592.html



占いで未来を予言することは
「詐欺」の一種として、違法とされていた社会・時代も多々ある。
このブログが言っているように、
マスコミで報じられた占いを信じて、
人生における何らかの重大な決断をして、
それが失敗や不幸につながったとき、
メディアや占い師を訴えることができるのかどうか
という問題が容易に思い浮かぶということは、既にその時点で
「問題アリ」なのだ。




ここには、隠れたちいさなテーマもひとつ、含まれている。
それは、「選ばれなかったもうひとつの未来」は存在しえない、ということだ。
人間が何らかの選択をした場合、
たとえば、AとBという2つの選択肢があって
その「A」を選択した場合、
「Bを選択した未来」というのは、どこにも存在しないし、
それをやってみることができない、ということなのだ。
元に戻って選択し直してみて比べることができない。
Aを選ばなかった人生というのが、どこにもないのだ。
想像はできるけど、絶対に存在し得ないのだ。




「天気予報は必ずぜったいにあたる」と思っている人が誰もいないように、
「占いは絶対に当たる」と思っている人がいない、ということも事実だ。
これは個個人の認識の問題ではなく
「占い」という言葉が持っている定義による。
これは単純に、言葉の定義の問題だ。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」は
占いという言葉に組み込まれた「意味」であり、
各人の想像ではない。
「占いが絶対当たる」というのは「女優は男性がやっている」というのと同じくらいの
単純な、語義の誤解だ。
「はずれるかもしれない」という意味を、「占い」という言葉は含んでいる。


ただ、この「はずれるかもしれない」ものを
マスコミという、一応「事実をお伝えします」ということになってるメディアが
「こうなるでしょう」と言ってしまっているところには
やっぱり「問題がある」と思う。
「マスコミが選んだ占い師ならば当たる確率が高いだろう」
というくらいの想定をする人がいてもおかしくない。
「マスコミは信頼性の高い情報を提供するであろうし、
 ならば、統計的に当たる確率の高い占い師に占いを依頼するであろう」
という予測がなされたとしても、おかしくはない。
実際には、テレビ局がそんな統計とったりしてるわけはないし
ましてや、占い師が自分の占いに
統計的に有意な情報だけを使ってます
なんてのは少なくとも私は聞いたことがない。
あくまで経験則に過ぎず、
それは感覚に近いものであり
例外、反例はどうしたって、あるはずだ(と私は思う。私が思うだけだけど。でも、反例がないぞと言い切っている占い師なんかいるのかなあ。いないと思う)。


だけど実際、地震や災害のことを研究してる星占い研究家もいる。
これをマスコミで伝えることは明らかに「大問題」だろう。


でも、実際、
予言者とか超能力者と言われる人々に、
マスコミは、予言をさせてそれを報道したりしている。
それを信じて恐れている人もたくさんいる。
マヤ暦が終わることを題材のひとつとした「フィクション」である「映画」が
製作されたりしている。
これはどう考えればいいのだろう。
終末論はどの時代にも、人間の大好物で
1999年に世界が終わらなかったのに、
また、新しい終末論を、ドキドキしながら信じたがっている「人類」がいる。
これは、それを信じる人間がバカだとかそういうことじゃなくて
人の心がそれに、惹きつけられるような構造を持ってる、ということなんだろう。
それに魅力を感じるのだ。
怖れながらも、それをワクワクしながら想像したり
それを見たいと、心のどこかで思ったりしてしまうのだ。
「占い」は、
はずれても、なぜか、占い自体は傷つかない。
1999年ははずれても、
2012年ははずれないかもしれない
と、
人類は、思ってしまうのだ。
これはとても不思議なことだけど、
でも、事実、そうなっている。




占いは当たらないかもしれない。
でも、当たるかもしれない。
当たるか当たらないかわからないもの、というのが
なんでこんなに、
古来、人間社会では必要とされているのだろう。
「そんなの必要じゃないよ」とも言える。
占いが無くても死なない。


それはしかし
小説が無くても死なない
音楽が無くても死なない
お芝居が無くても死なない
というのと似ている。
ほんとは、厳密には、究極には、「それがないと死んじゃう」のかもしれない。
音楽が無くても、生物学的には私は「死なない」かもしれない。
でも、こういう言い方はできるかもしれない
「音楽がなかったら、生きてることが目減りする」
「音楽が無くても死なないかもしれないけど、
 生きてられるかと言えばわからない、100%そうとは自分では言えない」
「死ぬと生きるが黒か白かじゃなく、
 その中間のグレーみたいなのがあって、それになるかもしれない」
くらいは、言えちゃうかもしれない。


マスメディアで占いを報じることに、問題がないか。
これは、私は、問題は、あると思う。
この「問題がある」は、
タバコを売ることに問題がないか
というのに近いと思う。
昨今ではタバコの存在そのものが「問題がある」とされているが
相変わらずテレビではタバコのCMをやってるし
やっぱり、店でもタバコを売っている。
「問題がある」けど「やってる」ことはたくさんある。
問題があれば即ストップ
には、なかなか、ならない。
なぜなら、問題があっても、
どうしようもない根っこを持った人間活動がそこにあるからだ。
簡単にはすぱんと切ってしまえない、
切ったら、血が出る。
禁酒法時代みたいに。


これは、
ニーズがあればやってもいい
という意味ではない。
ニーズがあってもやってはいけないことはたくさんある。
違法ドラッグはその代表だが
子供が欲しがっても与えてはいけないものがあるように、
「欲しがられるけれどもよろしくないもの」
というのはある。
ただ、人間が生きて生活していくということ、その全体のなかに
簡単には切り捨てられないことがあるのは、確かなんじゃないかと思う。
これはもう、占いと同じくらいに無根拠なんだけど
でもそうなんだ。
禁酒法の時代があっても人は酒を飲むし
占いも、禁じられた時代があっても復活し
これだけ科学が発達しても、それをみんなが関心を持って読む。
地動説を子供でも知ってるのに
天動説の星占いをそのまま受け止める。



占いは、科学的根拠もないし、必ず当たるわけでもない。
それを信じてしまう人もいる。
マスコミがやっているから正しいだろう、と思う人もいるかもしれない。
これは問題だ。
でも、それは放映されている。
「問題」を含んだまま、使われている。



マスメディアができるよりずっと前から占いはあった。
否、
甲骨文字は文字という、メディアの源流のおおもとにあるようなものだが
これが残っているのは
何をかくそう、占いのおかげだ。
祭祀、宗教、儀式、占い、オマジナイ。
これらは古い時代の、マスコミュニケーションそのものだったんじゃないだろうか。
占いの結果を記録したものが、最古の漢字の資料なのだ。
「情報」と書く、この「情」の文字が何を意味しているのか、
人間の心が一体何を欲しがって、何を必要としているのか、
「マス」コミュニケーションに欲しているものはなんなのか。
それがなんとなく
この、「占いを記したものが最古の漢字の資料である」というところから
垣間見えるような気すら、する。


なんちゃって。


だからこの小テストは私だったら
「問題は多々ある。
 多々あるけど、
 問題を抱えたまま、成されている、少なくとも今のところは。」
というふうに答えるかもしれない。


仕事しろよ自分!(はいよー



といって
占いをするのだった(爆


        • -


私は、ずっと
占いは、できればない方がイイし、
信じるべきじゃないと思うし、
こんなことをしている自分を恥じている、と言い続けている。
なんの科学的根拠も(少なくとも今のところ)ない「占い」を
信じられるものであるかのように言うことは大いに問題があるし、
マスメディアで占いを報じることに「問題がない」とは、
私は思わない。
自分がやってるにもかかわらず、
問題ありだと思う。
問題ありだと思いながらやっている、
占いして、占い方を本に書いたり、人前でしゃべったりしている。
これは正直
けっこう、悲しいものがある。
自分で自分が嫌になることもある。
ただ、人間は古来、占いをずっと続けてきている。
手相からこっくりさんから草履投げにいたるまで
占いは生活の中にごく一般的に、至る所にある。
ということはつまり
人の心の中にそれがある、ということだ。
これは、「ニーズがある」ということですらない。
人の心の中に、占いというものがなぜか、うまれて、ずっとある、
ということだけだ。
これは占いをすることを正当化する根拠にはならないし、
正当化なんかするつもりもないんだけど
それが、私が占いをおおっぴらにやっていることの
土台になっている。
それだけしか、やれている理由はない。