石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

メモ


http://www.astroarts.co.jp/special/20090722solar_eclipse/index-j.shtml


本日、日食。
時間↓
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090722ddm012040023000c.html?inb=yt


あいにくの曇り空だ。





「日食って、占い的には何が起こるんですか?」
というご質問をよくいただくのだが
その人にとって日食が何なのか

過去に起こったことをたぐって、
そこに通底する「スジ」のようなものを分析してみると
わかるかもしれない
と思っている。


まあ
場所が変わっていくから
完全に同じことがおこる、とかそういうことはないとおもうけど。


過去の日食(上記のページより)
2008年8月1日
2007年3月19日
2006年3月29日
2005年10月3日


何座で起こっているかは
この日に生まれた人が何座か、というふうに考えるとわかる。
8月1日なら獅子座だし
3月19日なら魚座だし
3月29日なら牡羊座だし
10月3日なら天秤座だ。


タイミングとしては、この前後、数日の幅がある、ような気がする。
たとえば
今回も前日に衆院解散したけど
阿部元総理がいきなり辞めた日とかもそうだった。
福田元総理が辞意表明したのは新月の翌日。
小泉内閣が任期満了したのは、日食前日。


なかなか合っている。


でも
「食ならいつも○○が起こる」
というわけじゃないんだよな。
「○○が起こった時、どうも、食の前後だったりする」
ということで
この2つのことは、全く別のことだ。


占いは
そういうとこが
ややこしい。


以下、ひらさんという方から頂いたメールについて考えたこと。
(直接お返事を出そうとしたけど返信がエラーになってしまった。)


私は
星占いは、「時間」を見るものだと思っている。
だから
「星の影響で・・・」ということじゃないと思っている。
サイクルとか、タイミングのことだと思うのだ。
種を植えて芽が出るまでの時間、
芽が出てから花が咲くまでの時間。
そういう「時間」は、
予測可能な部分と予測不可能な部分の両方をふんだんに含む。
予測可能だけれども
予測不能だ。
どっちか、だけ、ではない。
常に両方、入っている。


たとえば、
人間は必ず死ぬ、とみんな知っている。
それは予測可能だ。
平均寿命や最高齢の人の寿命も知っている。
だから、およそどのくらいがリミットか、みんな知っている。
それは予測可能な時間だ。
でも
だれも、自分がいつ死ぬか知らない。
大切な人がいつ死ぬか知らない。
これは、予測不可能だ。



人は、「誰でもいつかは死ぬ、早い場合もあるし遅い場合もある」と知っているのに
身近に死が訪れると
驚いたり不思議がったり怒りを感じたりする。
裏切られたと感じたり、罪悪感を感じたり、他殺でないのに犯人を心に捜したりする。
これは
時間の可知の部分と不可知の部分のあわいに起こる。



過去の偉人などの死の様子を本で読んでも
「何でそんな死に方を?」と真剣に疑問を感じたりは、まず、しない。
でも
身近な人の死には、そう簡単に納得したりできない。
なぜ?
と感じる。
主観と客観はそんなふうに徹底的に食い違う。


占いは
厳然と主観の側にある。
でも人はしばしば
「客観的に自分を知りたくて」占いをしたり、する。
そしてその矛盾は
矛盾として機能はしないのだ。
占いの場には、自分以外の何かが語っているはずの自分がいる。
そこで語っているのは占い師だから
自分ではない。
だから主観ではあり得ない。
でもそこに描かれているのは客観ではない。
たとえば死を占ったとしても
そこに語られるのは
誰にでも公平に訪れる客観的な当然の死ではなく
不思議でたまらない、何か意味があるはずの、身内の死や、自分の死だ。




占いに接する人はたいてい、
「そこには私の知らないことが書かれている」
と感じている。
でも、その人が知っていることも、じつは、充分書かれている。


たとえば
「愛の時間です」
と書いたとき
占いを読む人は「それは、まだ見ぬ愛だ」と感じる。
これから受け取れる愛で、今までとは違う愛だ、と感じる。
自分を興奮させるような愛のことだ、と感じる。


でも、実際
人は日々、当たり前のようにいろんな愛に接している。
お金を介さない人間関係は全て、愛の関係だ、とも言える。
報酬のやりとりがないつながりは、人間の感情だけでできている。
人と人とをつなげるポジティブな感情は
みんな、愛情、と呼ばれている。


家族の愛情や友情なんかは、あまり人を興奮させない。
愛という言葉はしばしば、興奮とすり替えられているので
日常的な愛については、
人はほとんど意識しない。
それを受け取っていることに気づきすらしないし
自分が何かを愛していることにも気づいていない。
人がそういう愛をハッキリ意識できるのは
愛を失ったときなのかもしれない。
だから
誰か、お金を介さずに繋がっていた人がいなくなったとき
その人は受け取っていた愛を一番自覚できたりする。


時間が持っているものの不思議さ、


もし星がそういう時間のすがたを描き出してくれるのではなく
本当に、天から降ってくるような幸運や不運を知らせてくれるものなのだとしたら
人が期待し、興奮するようなことだけを知らせてくれるものなのだとしたら
私は占いなんか本当にキライになって、興味を失うだろうと思う。


星が時間の姿を描き出す
ということも
絶対に仮説でしかあり得なくて、証明はされていない。
だから
世迷いごとでしかない。


占いに、たしかなことは、なにもない。



たしかなことはなにもないのに
それが人間の心を魅了するのは
そもそもそれが人間の心から生まれたものであって
だから
人間の心からうまれたものと、この人間が見ているこの世界の見え方はかさなるし
そのことにこころうごかされないわけはないのだ。


私たちは私たちの外側には出られない。


科学やロケットを使って、私たちのロゴスは必死に私たちの外側に出ようとするけど
私たちは相変わらず私たちの中にいる。



占いはそういうところにあるものだと思う。