石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

14th-AZさん chap.1


インタビュー企画、14人目は、
AZさんという30代の女性にお願いした。
この稿も長くなりすぎてしまったので、2章に分ける。
まず、第1章。





吉祥寺の、喫茶店で待ち合わせた。
私よりもAZさんのほうが先に到着していて
隣り合わせの席に座って、携帯メールで初めて
あっ!と「ご対面」になった。
で、あわてて、
彼女の座っている席の向かいに腰を下ろした。




インタビュー記事を書く時はいつも、
その方の印象を思い浮かべる。
AZさんの姿や声を思い起こしたとき、
まぶたに浮かんだのは、ある花のイメージだった。


それは、ライラックだ。
ライラックの側にいくと、
花の姿が見えなくても、すぐわかる。
それほど、香りが強い花なのだ。
私が幼稚園生のころ、
初夏に東北の祖父母の家に遊びに行くと
庭に、淡いラベンダー色の、房状の花が咲いていた。
ゆびさして祖母に尋ねると、ライラック、と教えられた。
東北の初夏は遅く、梅雨とは無縁のため、湿気がない。
晴れの日はからりと天空まで空気がつきとおり、
陽光はまだいくらか冷たさの残る大気中をまっすぐに降りてくる。
とろりとした甘い香りと、透きとおる淡い色調と、さんさんとゆたかな花房。
ライラックは私にとって、単なる「花」という物体ではなく、
もっと三次元的な、さらに四次元的な存在だった。
ライラックはその香りによって、浴びる陽光によって、落とす木陰によって、

ひとつの時空を作り出すことができる花なのだ。


AZさんの、ある深い静けさと同居している、
北国の初夏の空気のようなすがすがしい明るさが
子供の頃親しんだ、ライラックのイメージを喚起した。
しかし、多分それだけではない。
AZさんについてのこの印象は、
AZさんのお仕事についての情報と連動している。
AZさんのお仕事は、「アロマテラピー」なのだ。


私は、「アロマテラピー」という名前を聞いたことはあったのだけれども、
具体的にどんなことをするのか、知らなかった。
そこで、どんなことをするのでしょう、と聞いてみた。
すると
オイルマッサージをするのです
という答えが返ってきた。
クライアントの、今の状態にあったアロマを探し出し、調合して、
それをオイルに混ぜて、体をマッサージする、のだという。
足だけとか、顔だけとか、部分のマッサージもあるらしい。
でも、AZさんは「全身」のみをやる。


アロマ、つまり、匂い。


精油、いわゆるエッセンシャルオイル、というものがある。
それは植物の香りを濃縮したエッセンスで、
たくさんの種類がある。
ひとつひとつの香りにそれぞれ、作用があって、
それらを漢方薬のように調合するのだ。
で、これをオイルに混ぜてマッサージする。
すると、気分が良くなったり、
体調が良くなったり、すこしサイズダウンしたり、と
いろんな効果があらわれる、らしい。


嗅覚というのは、他の感覚よりも、脳とのつながりが近いんです
と、AZさんは教えてくれた。
嗅覚は、構造的に、ほとんど直接に脳に刺激がいく、らしい。
そのことは、感覚的にものすごく納得がいった。
何かの匂いを嗅いだ時、
ぶわあーっと「気持ち」がわき上がることが、よくある。
で、そこから、
この匂いと気持ちは何だっけ・・・と記憶をたぐると
あ!中学時代の音楽室の楽器置場のカビくさい匂いだ!
とか、思い出せるわけである。
で、あのころの、
合唱のパート練習でピアニカを持ってその倉庫みたいな部屋に入り、
ちょっとリラックスしてはしゃいだ気分(先生は他のパートを見たりしているので監督の手がゆるむ)などが
ありありと脳裏によみがえったりする。


あの、匂いによる記憶の喚起力というのは
情報を引き出す、というよりも、
そのころの感情や感触が直接よみがえる、という感じで
実に不思議だ。
まるで、時間と空間がそのまま引っ張り出されてくる気がする。
あのころの自分の心を一瞬取り戻したような気がする。
視覚や聴覚、つまり何かを見たり聞いたりしても
匂いほどの生々しさで記憶が引っ張り出されることはない。
見聞きすることで出てくるのは、「思い出」程度だ。
匂いは、頭と心の時間を一瞬、引きずり戻してしまうのだ。
なるほど、あんな直接的な作用をする感覚なら、
確かに、なにか体にも効くのかもしれない。


アロマテラピーにおいて、
各種のエッセンシャルオイルにはそれぞれ、
化学組成などから分析された「作用」が、わかっている。
しかし、AZさんは、私は感覚でやるんです、と言った。
体調を聞いて、それによさそうな精油を選ぶ、
というのが一般的な方法なんですが、
私は、実際に香りを嗅いでもらうんです。
だいたいいくつか当たりをつけて、
ひとつひとつ、香りを嗅いでいってもらうと、
あるところで表情が、ぱっ!と、変わることがあるんです、
それだ!という感じですね。
これは時間がかかるのですが、
いちばんぴったりセレクトできる気がするんです。
表情を見るとわかるんです、
ぱあっと突然、明らかに表情が変わります、
それで、これですね、となる。
そういうとき、人の嗅覚ってすごいなと思うんです。
いくつか当たりをつけるときでも、
自分の感覚で選ぼうとしています。
何でこれを選ぼうとしているのかわからない、
ということもあります。
成分的なことをさしおいて選んでいることが多いです。
でも、肌にさわっていったとき、
そうして選んだ精油が「当たり」だったことがわかったりします。
湿疹ができている人がいて、
彼女はそれを「いつものことなので」と言って気にしていないんですが
その湿疹って、免疫が落ちた時に出ることが多いんですね。
で、彼女が香りで「これ」と選んだものが、
免疫力に効果があるものだった、ということもありました。


AZさんはとても楽しそうに、
いわば「身を入れて」話してくださった。
彼女が自分の仕事に充実感や楽しさを感じているのが
びしびし伝わってきた。
その「充実感」の「感」がまさに、
「感覚」であって、彼女の体全体を満たしているのだ
という気がした。
私は、彼女がとても羨ましかった。
自分の仕事について納得し充足している人を見ると
とても羨ましい。
私は現在、占いを仕事にしているが
この占いというものに、
座りにくい椅子に座っているみたいな感じを
どうしても捨てられないでいるからだ。
「占い」には、何の科学的裏付けも根拠もない。
私の腕が悪いのだろうが、外れることも多々、ある。
当たり外れ以前に、
「こんな占いを読んでショックでした」と言われることもある。
会ったこともない、遠くにいる誰かに対し、
なんの正当な根拠もない「星占い」に基づいて
「あなたの未来はこうです」なんて書く、
その無責任への罪悪感を感じないときはない。
もちろん、喜んでもらえたときの喜びは、たしかに、ある。
星占い自体の、原型としてのおもしろさというのも、ある。
古来、人々は占いを必要としてきた、
そんな根源的ニーズが確かにある。
それは人間の心の中の、何か本質的なものにつながっているのだろう。
そう思うから、私はこの「仕事」をまだ、辞めてしまわずにいられる。
だけど、私の「仕事」には、やっぱり、うしろめたさがつきまとう。



AZさんは元々、音楽関係の業界新聞で、ライターをしていた。
子供の頃から本を読むのが好きで、物書きになるのが夢だった。
しばらくその仕事をしていたが、
ある時、外部の人が彼女の記事を褒めてくれた、という話を
知人から又聞きした。
とても嬉しかったが、同時に
「やりきったな」という気がしたという。
そのころはもう、ある程度書いたし、
書いているものに自分の本心とのギャップを感じることも増えていて
そこで、その仕事を辞めた。
書くことには、今はもう、こだわりがない。
やりきった、という気持ちそのままに、満足した。
その後は、接客に興味があったので、接客業をいくつか経験し、
そうしている間に結婚して、子供ができた。


2人目の子供を授かった時、
妊婦検診でアロママッサージを受けた。
何度も通った。
普通のマッサージは、服の上からやる。
でも、オイルマッサージは、素手で素肌に触れられていく。
この違いは、「衝撃的」だった。
そしてこれが、
AZさんの「ターニングポイント」になった。
すなわち、施術を受けながら
「こんな気持ちいいことをできる人になりたい」
という願いが心に兆したのだ。


しかし。
AZさんにはある一つのハードルがあった。
このハードルが、同時に、
この「ターニングポイント」の動力にもなっていた。
不思議なことだが、そうなのだ。
つまり。


AZさんは、人の体に触れるということに、
ある種の恐怖心を持っていたのである。
人に触れられることも、あまり得意ではなかった。


AZさんが子供の頃、ご両親は共働きで、
彼女は一人静かに本を読んでいることが多かった。
お母さんはあまり愛情を表現するタイプの方ではなかったらしい。
お父さんとの関係は、もっと深刻だった。
AZさんのお父さんは、彼女に暴力を加えた。
しかしそれは、殴る蹴るの暴力ではなかった。


父の暴力は、どう見積もっても、到底許されない暴力、
静かな、それも深すぎるダメージを与える暴力でした。
母の目を盗んで、夜中眠りこけている私の部屋に忍び込む、
というやつです。
そんな現実はまだほんの子供だった私にとって到底、
受け入れがたいものでした。
なので、物語の世界に逃げたんですね、きっと。
母に打ち明けたのも、何年か経ってからです。
小5くらいのときかな。意を決して。
母もそのことで被害者となり、悲しい思いをする、
ということが、わかっていたからです。
だけど、意を決して打ち明けた割には
母は子どもを本当の意味で守る力を持ち合わせていませんでした。
これは悲しいけど、確かな事実です。
「守られている」という感覚がないんです。


この、お父様についてのお話は、実は、
インタビューの中ででてきたものではなかった。
私がこの原稿を書き上げて、それをAZさんにチェックしていただく、
その何度かのやりとりの中で、
不意に、打ち明けていただいたことだった。
稿にこれを入れるかどうか、迷った。
でも、AZさんは、
この原稿を読むうち、事実と違うことが文字になることに違和感を感じた
と言った。




AZさんは、アロマの学校に通い始めた。
2人の幼い子供がいて、
学費のために仕事もするようになった。
学校は自宅からかなり遠い場所にあり、
電車で片道1時間以上かかるのだった。
その大変さは容易に想像できる。
AZさんは電車の中で何度も
「何でこんな大変な思いまでして通ってるんだろう」
と自問した。
そんなある日、ふと、
この通学電車の中で、AZさんは気がついた。
つまり。
「私は、本当は、人にさわりたいんだ」
という、このことである。


素手で素肌に触れられることへの強い恐怖心には
子供の頃のあの体験が、大きく影響しています。
悪意、というか、まったく自分本位な欲求で触れられていたあのとき、
私は、その悪意を、体全体で受け止め続けていたのかもしれません。
だからこそ、助産院でオイルマッサージを受けたとき、
施術する人の善意の思いが、
手を通して自分の体に深く伝わってきたのを感じ取って、
衝撃を受けたんだと思います。
マッサージを受けた助産院で初めて、
「守られている」という感覚を味わったんです。
人に触られ続けることで恐怖心を乗り越えたんだと思います。
マッサージには何度も通いました、
ほんとに、何度も何度も、です。
自分から通っているのに、
触られたくないなー、と思いながら、ベッドにあがる、
という日もありました。


学校から帰る電車の中で、
私は本当は、母親にさわってほしかったんだ、
さわる、というか、くるんでほしかったんだ、と突然、気がついて
電車の中で本当に、はっとしました。


子供は、体験するほとんどあらゆることを
「そういうものだ」と受け入れ、耐えることができる。
子供は考えられないほどたくさんのことをあきらめることができる。
他の子供が当然のように期待して叶えられるささやかなことを
その子は、禅僧のように潔くあきらめて受け入れてしまうことができる。
でも、そんなとき、その子の心の中を
慢性的にいっぱいに満たしているあの「心細さ」は、
切ないほどにいたいけで、華奢だ。
大人に守ってもらえない状態に置かれたとき、
子供が味わう「心細さ」は、
大人の想像を遙かに超える。
AZさんの「守られない」という心細さが
「くるんでほしかったんだ」という言葉の中に
深刻に浮き上がって見えた。




AZさんのような深刻な体験があったわけではないが、
かくいう私も、人に触れたり触れられたりすることは、
どこか、怖い。
不快だというのではなく、緊張するのだ。
たとえば、私は、
自分でも自分の足の裏に容易に触れないほど、くすぐったがりやだ。
寝る時、タオルケットのへりが首のところへくる、
それがくすぐったくて笑って眠れなくなることがある。
この、くすぐったい、という感覚も、
触れられることへの繋がっているような気がする。
たとえば、美容院でシャンプーしてもらうときなど
人によってはくすぐったいと感じる。
さわり方とか、心理的な状態とか、何らかの「人」に対する緊張感と
「くすぐったさ」がつながっているのだろう。
私の、そんな、接触するときの緊張感は、おそらく、
嫌悪されたり拒否されたりした経験に基づいているような気がする。
だから多分、私の緊張感と、AZさんの恐怖感は、同じものではない。
でも、人に触れることへのある種の抵抗感は
なんとなく想像できた。


学校では、実際に学生同士がマッサージをうける時間もあった。
そこで、AZさんは人に体を預ける練習をした。
これは重大な体験だった。
だが、助産院でのマッサージや、この学校での練習の体験などを経て、
AZさんは、自分がマッサージしてもらうこと、
すなわち、触ってもらうことが、好きになった。
乗り越えて、その先へ向かったのだ。


大変な環境の中、課程を終え、
AZさんはみごと、資格を取得し、開業した。
しかし、開業はしたものの、
「全身トリートメントしかできない」自分に自信が持てず、
自宅にお客さんを呼ぶのを止めていた時期があった。
迷っていたAZさんに、友人があるセラピーサロンを紹介してくれた。


その人はエステの経験がある人でした、
その人のさわり方は、なんというか、パンパンさわっていくんですね。
それは違和感があったんです。
そのとき、
私は人にやさしく触れたい、
守りたい、というか、くるみたい、
その時間だけはその人を守りたい、と思いました。
その人を取り囲むいろんなことから、その時間だけは
理由もなく保護したい、と思ったんです。
物質的にその人の身体をどうこうしたい、のではなく
もっと本質的な部分でその人を見据えたい、関わりたい、
そう思っていることに気づいた、大きな経験でした。


仕事の中で、私は、
自分が子供の頃からそうありたかったことを再現していると思います。
それだからか、やっている時の方が気持ちが良いんです。
でも最初の頃は、
自分がやって欲しかったことを人にしてあげよう、なんて
単なるエゴじゃないかと思ったりもしました。
そんなとき、ある方が
私のマッサージの感想をおっしゃったんです。
それは
こんなに大事にされたことがない、
こんなに大切にさわってもらったことはないです、
という言葉でした。
それで、
エゴだけじゃない、
ちゃんと自分の手で渡せているものがあるんだ、
という自信が持てるようになりました。


守る。くるむ。
この言葉はAZさんのお話の中で
なんどもなんども繰り返された。
守られず、傷つけられた。
どうにかして、守られたかった。
でもやっぱり、守られなかった。
このことからくる、接触への恐怖感は、
彼女自身の手でくるりと裏返されて、
接触することを仕事に選ぶことになった。
守られたい、守られない、だから拒否する、
という構造だったのが、一転して
守られたかった、だから守ってあげようと思った、となった。
真正面からぶつかって、自分のものにしてしまった。


こんな不思議なことができるのか。

たとえば、歯医者の治療が怖くて、歯痛をガマンしてしまうことがある。
麻酔なしで外科手術を受けることなど、想像もしたくない。
傷によってはそんなふうに
自分でさえそこに手を触れえない、という場合も多々ある。
無意識にひたすらそこをかばってしまって、
触れられないままにずっとそのまま痛み続ける、ということもある。


AZさんのように強く傷害された場合、
そこに触れることもできない傷、というふうになっても
おかしくない、と私には思えた。
でも彼女はそうならなかった。


客観的にどのくらいひどい目にあったか、ということと
その人の内面にどれだけの痛みが生じ、変動が起こったか、ということは
全く別のことだ。
同じ言葉を投げつけられても、
まったく平気な人もいれば、立ち直れないくらい深く害される人もいる。
同じような傷を負っても
それが原因で死ぬ人もいれば生き残る人もいる。
体質や生まれ持った体力みたいなものには個人差がある。
だけど、それだけなんだろうか。



体の傷なら、だれだって治したいと思う。
でも、胸の中に刻まれた傷は
それを手放したくない、と思えることがある。
傷を負っていて、それが痛むにもかかわらず、
その傷を失うのがいやだ、と思えることがあるのだ。


それは、
その傷が入れ墨のような機能を果たしているからかもしれないし
ある場合には、傷が勲章や正当な弁解となるからかもしれない。
あるいは、
その傷が、理不尽にそれを負わされたことへの怒りと一体になっていて
この怒りが、傷が消えることを禁止しているから、かもしれない。


いずれにせよ、彼女は、
この、傷の二次災害のようなものも、負わなかった。


薬の副作用も、体質によって出る人と出ない人がいる。
持って生まれた強さ、と言ってしまえばそれまでだ。
だけど、それだけなんだろうか。
どうも、それだけじゃない、という気がした。


傷は、理不尽に負わされる。
そして、その傷を自ら引き受けてそれに取り組むことは、
大きな危険を伴う。
傷はその人の人生に様々な問題を生み出すし
その人を取り巻く人を苦しめてしまうこともあるけれど
でも、その傷を引き受けたり取り組んだりしないことは、悪ではない。
それに取り組んだことで
もっと大きな悲劇を生み出してしまうこともあるのだ。
傷を負ったことはその人の責任ではないし
その傷にとりくめないことを、誰も責めたりできない。
傷に取り組むことが「善」ということにはならない。
傷の中に住まわされてしまうこともあるし
傷で縛られてしまうこともある。
その傷を失ったとき、立てなくなることもある。


だが、その一方で
彼女のように、その危険地帯を通り抜けて
その先に自ら、進んで行く人もいる。


私は自分が傷ついているとはあまり思わない。
でも、かつて、ある人に、
君は傷ついてるね、と言われたことがある。
別に泣き叫んだりしてそう言われたわけではなく
全く普通に雑談していてそう言われたので、びっくりした。
この「インタビュー」シリーズにおいて何度も、
私はそのことを思い出した。
それは、痛いところをつかれたとか、何か言われて傷ついたとかではなく
肯定的なものや美しいもの、強いものがお話の中にあらわれたとき
私は、驚いたのだ。
驚きとは、
それが自分の中のどこを探しても見つからない、ということを意味する。
どうしてそれを信じることが出来るのだろう、とか
どうしてそれを肯定することが出来るのだろう、とか、
そういうふうに、何度も立ち止まった。
そして、ふてくされたみたいに、そこから動きたくなかった。
もし私が、知人たちの言葉通り、
なんらかの傷を負っているのだとしたら
私は多分、傷の中に住んでいたいのかもしれない、と思った。
それは、たまらなく幼稚なことのように思われた。
でも、それをやめよう、という発想は、
私の中からどうしても、でてこなかった。
あいかわらずわだかまって、そこでうごきたくないままだった。


AZさんへのインタビューの中でも
何度もその、どうしてだろう、という驚きを感じた。
私にはない、
この人の、この無垢なる強さは、一体、どこからくるのだろう、と。

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以下、第二章に続く。↓
http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20080813