石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

13th-STさん


インタビュー企画、13人目は、
STさんという30代の女性にお願いした。
横浜のアフタヌーンティーで待ち合わせをした。



頭のてっぺんにおだんごを作って、
おでこを出してにこにこするSTさんは、
コットンとか、籐のかごとか、
そういう、純朴で上質な素材の感触を思わせる方だった。
シンプルで、あたりまえで、妙な混ぜものがない。
だから安心できて、手触りが良い、という
そういうイメージが心に湧いた。


STさんは、私に、箸袋をプレゼントして下さった。
ハンカチのような真四角の布の真ん中に輪があって、そこにお箸をいれて、
くるくるっと巻いてスナップでぽちっととめられるようになっている。
私は、手持ちのペンを試しに、巻いてみた。
ガーゼのような布を合わせて作ってある。
内側は白、外側は薄い紫色の花柄の布だった。
私が作ったんです、最初はハンカチにしようと思ったんですが、
こういうのにしたらいいかな、と。


STさんは、ご主人と小学一年生の息子さんと、3人で暮らしている。
ご主人が経営しているコーヒーショップを、STさんも手伝っている。
元々、夫婦ともに会社員だったのだが、
ある時突然、ご主人がコーヒーショップを始めた。
STさんは、ご主人がやりたいことをやるならそれでいい、と思った。
自分も手伝おうという気はなかった。
子育ての真っ最中だったし、自分は自分でやりたいことがある、と思った。
でも、結局、お店を手伝うことになってしまった。
そのことに、STさんは複雑な気持ちを抱いている。
夫婦二人でカフェをやっていると、
二人で夢を叶えた、みたいに思われて、そう言われるんですが
私はそう言われるのが苦痛なんです。
奥さんがお菓子作りが好きで、旦那さんがコーヒー好きで、
二人でカフェを始めた、というお店はたしかに多いけど
うちはそうじゃない。
でも、そうしてあげられない自分がいやだな、と感じたり、
そういうことを意識しすぎている自分もいやだとおもったりします。
将来的に、二人でやっていくのは悪くないと思うけれど、
今でもちょっと店を出たい気持ちはあります。
そう、STさんは言った。


STさんは、私はものを作るのが好きなんです、と言った。
布が好きなんです、家に、やたら布があります。
その布で、STさんは、バッグや小物などを作る。
服を作ることもある。
でも、できあがると満足して、
そのまま着ないで人にあげてしまったりする。
幼い頃、キティちゃんのおもちゃの電気ミシンで
ポーチみたいなものを作っていたのが記憶に残っている。
私は、「ものを作るのが好き」ということは多分
創作する人ということなのだろう、と想像した。
デザインが得意な、クリエイティブな人なのだろう、と思った。
しかし、それは間違いだった。


デザインしたいんじゃなくて、
作るのが好きなんです。作る側になりたい。
そう、STさんは言った。
布もそうで、平らなものが立体になる、というのがおもしろいんです。
編み物も、ただの糸が形になっていくのが好きなんです、
形になっていく、その、つくっていく工程がすごく好きなんです。
多分、編み物とかに夢中になる人って、
そこに興奮するんだと思います。
形になっていくのが、早く見たいんです。
糸や平らな布が形になっていく、
そこでぶわーっと何か、アドレナリンが出てくるんでしょう、
他の人がやっているのを見ているとやりたくなるんです。


なるほど。
私は本当に幼い頃から「不器用」で通っていて、
ものを作るのは体育と同じくらい苦手だった。
やり方は理解できるんだけれど、
その理解どおりには、手が動いてくれないのだ。
どこかずれていたり、曲がったりして
つじづまが合わなくなっていく。
だから苦手で、できればタッチしたくない分野だった。
家庭科の時間でパジャマを作らされたが
その寝心地は最低だった。
サイズは合っているのに、どうも窮屈なのだ。
寝返りを打つと、どこかが引っ張られたり痛かったりする。
製作の手順に間違いはなく、誰より早く終わったのだが、
なにか、どこかが、おかしいのだった。


しかし。
忘れもしない高校三年生のとき、
私はどっぷりと片思いの恋をした。
進学校で受験戦争のまっただ中だったが
恋にそんなことは関係なかった。
恋はいきなり落ちるのである。

まだそのころは、私も頭の中がメルヘンな乙女だった(一応)ので
彼に、手編みのセーターをプレゼントしたい!と突然思い立った。
それまで、編み物なんか全くしたことがなかったのに、
なぜいきなりそう思ったのか、いまだに思い出せないのだが
とにかくそう思い立ち、
無謀にも、複雑な網模様のセーターを
クリスマス目指して、夏から編み始めた。


元来が不器用な上に、やったこともないわけだから
とにかくマニュアルと首っ引きである。
最初の数段を編むのに何回やり直しただろう、
糸が糸じゃなくて綿みたいになって、少し捨てなければならなかった。
それでも、気が遠くなるような時間をかけて、私は編んだ。
毎日、学校に行く前に4段ずつ、とかスケジュールを決めて、
じりじりと編んでいった。
セーターになるという気配すら感じられなかったけれど
それはじわじわと大きくなる樹木のように
竹の子を飛んで修行する忍者のように、わずかずつ伸びていき、
クリスマス直前にはめでたくなんとか、
前身頃、後ろ身頃、袖2枚の平たい部品が完成した。


で。
これを、はいでいくわけである。
編み物ではくっつけることを「はぐ」という。
くっつけるのにはぐってどういうことやねん。
漢字では「接ぐ」と書く。
まず肩で前と後ろの身頃をくっつけて、
それから袖を付けて、最後、脇をはいでいった(たしか)。


そしたら、セーターが忽然と姿を現した。
いきなり、である。
今まで得体の知れない様子をした平らな布みたいなものでしかなかったのに
そこらで売ってるのと同じ(と言ったら失礼だが)ような
ちゃんとしたセーターになったのだった。
びっくりして、感動して、
当然ながら、それを自分で、着てみた。
だぶだぶである。
あたりまえだ。彼のサイズで作ったのだから。
だけどどうだろう、あの喜びは、
たしかに、「興奮」と呼べるものだった。


STさんの話を聞きながら
あのときの興奮をじわじわっと思い出した。
たしかにあれはすごかった。
あの快感を味わいたくて、わーっとものを作る人の気持ちは
なんとなくわかった。
上手にできたら、すごくうれしいだろう。
あのセーターは、私の人生では
一番上手にできた制作物だったと思う。
上手に作れることはマレだったから、
作ることにハマれなかった。
でもいつもある程度以上に上手に作れる人ならば、
あの快感はクセになるだろう。
いつも何かを作りたいと思うに違いない。


しかし、私はなぜ、へたくそなのだろう。
自分では、理由がわかっているつもりだった。
その理由とは「几帳面でないから」である。
おおざっぱなのだ。
たとえば、端っこと端っこを合わせろ、と言われて
ぴったり、寸分の狂いもなく合わせないと気が済まない人がいる。
そういう人は時間もかかるのだが、
キレイに、上手に仕上がる。
私は、それほど厳密でなくても、平気なのだ。
三センチが三センチ3ミリでも気にならないのだ。
だからうまくいかないのだ、と思っていた。


しかし。
STさんは、言うのである。
棒編みは好きじゃないんです、
カギ編みならいいんですけどね。
棒編みって、同じように編んでいかないといけないじゃないですか、
でも私、どうも、そのときによって編む強さが変わっちゃうんですね、
だから真っ直ぐなものを作れないんです、
気分によって全然違うから。
カギ編みは、だんだんそのまま形になっていくじゃないですか、
まっすぐきちんと単調に編まなくていいでしょう、
だから好きなんです。


「ものを作るのが好き」
と言われて、私はSTさんのことを、
手先の器用な、細かいところをきちっと合わせる力がある人で、
デザインとか、アート的な創作が好きな人なんだ
と考えた。
でも、この2つはどちらも違っていた。
STさんは、ものができあがっていく様を見るのが好きで
そこに夢中になってしまう人で、
さらに、棒編みだと真っ直ぐに編めない人なのだった。
この2つのことは、とてもリアルで、あるストレートさがあって、
「そういう種類の人」とひとくくりにくくられるイメージから
クリアに脱出していた。


「イメージ」というのは、いろいろある。
でも、保険会社や車のコマーシャルに出てくるような
「幸せな家族」というのがほとんど存在しないように、
ある言葉が喚起するイメージ、そのイメージ通りのもの、というのは
この世にはほとんど存在しないのだ。
ある世界に憧れて飛び込んだけれど
その世界の内部はイメージしていたのとは全然違っていた!
というのは、じつによくある話だ。
そういうことが題材になっている映画や小説もたくさんある。
イメージと「実際」の違いがよく描かれていると、
そのリアリティに人は感動する。


STさんが
「ものを作るのが好き」
と言った時、それを聞いた私は
「ああ、それは、私の中には全然ない、
 この人は私とはかけ離れた人なんだ」
と思った。
でも、詳しく話を聞いてみたら
STさんの「ものを作るのが好き」というのは
ものができていく時のあの快感や興奮とか、
いつも同じようにはできない不安定さとか、
私自身の中にちゃんとあるものが含まれていたのだ。


リアリティ、とは多分、
自分の中にもそれを見いだせる、ということなんだろう。
全く自分とは関係ないと思っていた「イメージ」の向こう側に、
自分を見つける。
いるはずのない場所に自分がいる。
受動だったものが能動に変化する瞬間だ。
「心が動かされる」というのはそういうことだろう。


STさんには、小学生の息子さんがいる。
でも、もともと子供が欲しいと思っていたわけではなかった。
先に弟さんに子供が生まれて、ものすごくカワイイ!と思った。
そのすぐ後に、お父さんが亡くなった。
そのとき、
「何のために人は生まれて、死んでいくのだろう」と考えた。
みんながみんな、有名になるワケじゃない。
ほとんどの人は、周りの人にしか知られないまま、死んでいく。
生まれたことも死んだことも、その周りの人しか知らないのだ。
そんな、膨大な量の「消えていくもの」があって
その全体が世界というか、宇宙をなしている。
自分もそこに組み込まれた小さなひとつぶなのであれば、
自分も、子供を産んで育てることが、普通なのだ、と思えた。
それが使命だと思ったんです、とSTさんは言った。


STさんは、
「それが普通なんだ」という表現と、
「それが使命なんだ」という表現を
たたみかけて、繰り返して、
同じ意味を表現するフレーズとして使った。
「普通」という、一般的でありふれていて自然な状態を意味する言葉と
「使命」という、特殊さや特別さを意味する言葉とを
同じ言葉として使っていた。
このことは、一見奇異だけれども
実際、そのとおりなんだ、と思えた。
STさんの言う「普通」は、
「普通に、人と同じようにすべきだ、みんなのマネをすべきだ」
ということではない。
STさんの言う「普通」とは、
自分の中から自然に、いわば「ムリせず」出てくる、という意味なのだ。
気負いのない、まるであたりまえの、普通のこと、という意味なのだ。
そしてそれをイコール、STさんは「使命」と呼んでいる。
天から降りてきたり、前世からもらってきたりするんじゃなくて
生き物として当たり前に、お腹の中から
あくまで自分に固有の現象として湧いてくるのが
「普通」で「使命」なのだろう。
それが普通なんだと、使命なんだと思ったんです。
その2つの言葉のかねあいは、実に真っ直ぐで
ある清浄さがあった。


私は、自分では、子供を産むことはないだろうと思っている。
そう言うとたいてい、
「子供産んだ方が良いわよ」とか
「産めば気持ちが全然変わるよ」とか言われる。
「そんなふうに決めちゃわない方がいいわよ」とか言われる。
でも、私はごく自然に、
産まないだろう
と思っているだけなのだ。
このことはSTさんの言う「普通」と多分、
同じニュアンスをはらんでいる。
STさんが、子供を産んで育てると言うことを
「普通に、使命だと思った」
と聞いても、
私は女として普通じゃなくて使命を果たしてない
とは、全く思わなかった。
それはそういう意味ではないのだ。
いわば、私もSTさんと同じように
おかしな言いぐさだと思うけれど
「子供を産まないということが
 普通に、使命だ、と思っている」
ということになる。
その点では、まったくひっかからなかった。


子供が欲しくてたまらない、とか、
子供を産むことは私の使命だ、とか
そう思いつつ、
なかなか授からないで苦しんでいる人もたくさんいる。
普通に使命だと思えたことをすらりと実現できるのは
確かに、運が良いことだ、と言えるかもしれない。
世の中にはあらゆるケースの親子がいて
あらゆるケースの独身者や子供のいない夫婦がいて
そこには、千差万別の事情があり、関係があり、環境がある。
全てに当てはまる方法論や価値などないし、
「産むのがいい」「産むべきでない」などと
他人が言えるものではない。
不妊治療や体外受精代理母など様々な問題を
現代社会はどう扱っていいのか、
いまだに結論を出し得ないでいる。


子供を産むか、産まないか。
多分に意志や行動以外の要素を含む、
こういうデリケートな問題については、
ケースとケースを比較することは不可能だ。
この話は、子供を生むことそのものの「使命」などについて
書いているわけではないし
STさんもそんな意味で話しているのでは、まったくなかった。
だから私も、自然に受け止められた。
もし、STさんがこの「使命」を
万人に当てはまるものだと感じていたなら
私はこんなに気持ちよく心動かされながら
この人の聡明さに感じ入ったりできなかっただろう。


全然別の場面で、
たとえば「私の使命は何でしょうか」といわれるようなとき、
STさんの言った「使命」というのには
一つのポイントが潜んでいるようにおもえた。
通常、「これが私の使命だ!」という表現をする時、
そこには、なんとなく
ヒロイックな、「選ばれし者」というような、
特別な色合いが込められている。
私にしかできないこと、私に天から与えられた仕事、というような
ピックアップして一つだけ別の色を付けるような
そんな印象が込められているのが
「使命」という言葉であるような気がする。
でも、STさんの言った「使命」という言葉には
そんなヒロイズムは一切なかった。
それどころか、もっとシビアに
たくさんの人が周囲の人にしかその生き死にを知られずに生きていく
それが連綿と繰り返されていく
という、いわば自分の存在の絶対性を「見切る」感覚が先だったのだ。
絶対性を見切ったとき、別の絶対性が表れた。
世界に対する絶対ではなく、自分の中にある絶対、ということだ。
これが「普通に」と表現されたのだ、と思った。
自分の中にある絶対、とは
「あたりまえ」
と感じられることだろうと思う。
「使命」は、「普通」で、「あたりまえ」なのだ。
そしてそれは、10人いれば、10種類あるのだろう。
私のように、最初から何となく解っていることもあれば、
STさんのように、何かをきっかけに突如「出会う」こともある。


私は、自分が子供を産まないだろう、と思った時、
大好きな「赤毛のアン」シリーズを思い出したのだ。
あのシリーズには「オールド・ミス」がたくさん出てくる。
たとえば、アンを育てたマリラも、結婚も出産もしなかった。
つまり、歴史的に、と言ったらオオゲサだが
どんな時代にも
結婚や出産をしないで一生を終える女性
というのは、いっぱいいたのである。
それは別に特異なことでも異常なことでもなく、
社会の中に自然に、「あること」だったのだ。
そう思ったら、なんだかずいぶん気が楽になった。
これが中世末期のヨーロッパだったら
魔女狩りに遭う危険もあったかもしれないが
現代ではそんなことはない。
少なくとも、社会的迫害による命の危険はない。
別にそれこそ「普通」なのだ。


お腹にいる時から母性が目覚める、とか言う人がいるけれど、
私は全くそういうことはなくて、
子供を産んだら、最初は不安でたまらなくて、かわいいとも思えなくて、
いつになったらかわいいって思えるんだろう、と不安でした。
でも、大きくなるにつれ、どんどんかわいくなっていきました。
大きくなればなるほどかわいいという気持ちが強くなるんです。
私の場合はそうでした。
STさんはそういった。
息子さんは今は小学一年生で、とても元気な男の子なのだそうだ。
歩いてるところを見たことないんです、
常に走ってるんです、学校からも必ず走って帰ってくるんです、
と彼女は笑う。
おいかけっこが大好きで、足が速くて、
テレビ見てる時も逆立ちとかしてるんです。
STさんの話を聞きながら、わあ、その子はすごくかわいいな、と
私も胸があったかくなってきた。
かわいいものを見ると自然に顔が笑顔になる。
STさんがそういうふうに話しているのだ。
本気でカワイイのだ、だから私にもそれが伝染してしまう。
それもまた、とても「リアル」だった。


私は「母性神話」のようなものが好きじゃない。
母性は女性なら誰もが持っている本能で、
それは愛に満ちていて、欠けるところがなくて、
母となれば必ず持たなければならない感情だ、なんて
一体誰が考えたのかというと
大人になってしまった人たちである。
母親自身でも、こどもでもなくて
多分、大きくなって満たされない思いを抱えた大人たちが
子供の頃に運良く手に入れた欠けることのない愛に憧れて
そういう言葉を捏造したのだろう
くらいに思っている。
これは私の偏見かもしれない。
でもそれでもいい。
母性は自然に生まれる女性特有の思いであり、
本能であり、当然であり、あるべきであり、
という観念に、むやみに憤りを感じる。
自分がそれを強制されたりしたわけでもないのに、
なぜかそのことに憤りを感じる。
もしかすると、
自分では産まないだろう、と思っているせいかもしれない。


こうあるべきだ、とか
これはこういうもんだ、とか
私たちは知らないうちに「イメージ」につつまれて生きている。
イメージを言葉として扱っていて
単なるイメージの組み合わせで、
納得したり理解したつもりになったりしている。
だけど、STさんは、そういうイメージの外側に立って
いかにも「リアル」の中で生きている。
それを実感し、自覚し、語っている。
STさんにはガーリーな、コットンのような印象があるけれど
お話をしているうちに、じわじわと伝わってくるのは
一つの色っぽさみたいなものだった。
色っぽさ、というと
なんだかいやらしい感じの言葉とおもえるかもしれないけれど、
そういう意味じゃなくて
白桃の色の肌の上に、
しっとりと清潔な湿り気が感じられるような、
そんなさわやかな色っぽさだった。
生きている、というそのリアリティが
物質的な美しさの中に、湿度と温度を伴って感じられるとき、
自分の中にある生き物としての事実を対象の中に発見して、
そこで「色気」が生じる。
要するに、色っぽさとは、
自分の中にあるものと同じ匂いを発見した時の
「近づける」という予感なのだろう。
カルタとりのように、トランプの神経衰弱のように
とりつく島もなかったもののなかに自分の合い札を発見して
そこに引力のようなものが生まれるのだ。
そのとき、人はドキドキしたりする。


この人は不思議な色っぽさを持っている、と気がついて
そんなふうに、ちょっとドキドキした(変な意味じゃなく。)。


リアルである、ということはきっと
こういうことなんだ、と思った。
観念や情報じゃない言葉で話せる、
そういうふうに生きている、
ということなのだろう。
知性ということを考えるとつい、
何カ国語もしゃべれるとか、難しいことを知っているとか、
そういうイメージが湧いてくる。
でも、本来の知性とは多分、そんなものではないのだ。
手触りのある、体の中にあるリアル、その中で生きる聡明さ。
そんな知性が、こんなふうに温かくナチュラルにありうるのだ、と
STさんを見ながら、静かに感動していたのだった。