石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

12th-SNさん chap.3


インタビュー企画、12人目、SNさん。
第一部 http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20080623/p1
第二部 http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20080708/p2
に続く、これが第三部、完結編。

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家の中にこもって過ごした7年間を経て
彼女の言う「社会復帰」を果たすまでには
さらに7年の月日を要した。
外に出るのは相変わらずいやだった。
人と話すことも、できれば避けたかった。
だが、周囲のねばり強い、そしてさりげないサポートを通して、
SNさんは、家から外に出て、さらに
他者に関わっていくようになった。
娘さんと外出できるようになり、
ボランティアと市民マラソンを走り、
何度かの挑戦ののち自治体の企画による海外視察に参加し、
「自分にもできることがある」という確信を抱いた。
その後、様々な福祉関連の活動を経て、
やがて介護福祉サービスの株式会社を起業し、
経営者となって今年で6年目を迎えた。


略歴としては上記の通りだ。
でも、そこに至るまでにはここには決して書ききれないような、
幾多のけわしい山谷があった。
視覚障害者は、活動する個人ではなく、
守られなければならない被擁護者だった。
知的主体ではなく、受動的客体だった。
自治体の企画したツアーに参加するため、SNさんが提出した論文は、
「これは貴方が書いたものではないでしょう」
と審査員に一蹴された。
これは目の見えない女性が書いたものとはとてもおもえない、
旦那様にかわりに書いてもらったのでしょう、というのだ。
怒りに震え、絶望するSNさんに、娘さんは明るく言いきった。
それは、ママの論文が認められたってことよ、と。


SNさんは、ご主人と娘さん、さらに周囲の人々の手を握って、
道を見つけて、今に至る。
全国の様々な団体から講演に呼ばれる。
彼女はどこにでも出かけていって、話をする。
学校や福祉関係の団体もあるが、会社経営に関係する団体が多い。
とはいえ、軌道に乗ってないし、毎月赤字だし、とSNさんは笑う。
会社をはじめて6年になるけれど楽しい時期なんか全然なかった、
一番最初から叩かれ叩かれ、
福祉はNPOでやるべきだってね、
株式会社なんかもってのほかだ、って、
利益を追求するっていうのがNGだって言われました。
でもちゃんと利益を出して、働く方も夢を持っていかなければ、
どうして良いサービスができて発展していけるのかと思うんです。
トンネルをずっと、掘って掘って、もっと早く抜けるつもりだったんだけど、
まだ掘っている最中なの。


会社を興して30年40年続けられてからやっと、
会社経営してる、って言えると思うんです。
だから商業同友会とか、経営者関係の団体の講演依頼は
最初は、断っていました。
でも、そうじゃない、って言うんです。
今は、経営がうまくいかないって自殺してる人がたくさんいる、
そういう人たちが、SNさんの話を聞いて元気が出るんです、
目が見えなくなってどん底までいって、
そこから苦労しながら立ち上がる、という話が
みんなを元気づける、というんです。
講演に、夫婦2人で青い顔をして来た人が、
奥さんと二人で死に場所を探していたけれど、
お話を聞いて、やる気になりました、がんばります、
といって帰っていくんです。
経営の話ではなく、そういうことなんです。
だから、講演ではいつも
「明けない夜はない」というタイトルにしています。
とはいえ、私にも、
もう二度と夜が明けない、と落ち込むようなときや、
穴を掘り続けるような大変なとき、真っ暗な時もあります。
でも、私はなんでも、「初めて」に当たるんです、
だから、ありえないことでも、あるかもしれない。


この「初めて」にあたる、というのは、
彼女のご主人が言ったことだった。
君はなんでも「初めて」に当たるんだね、本当にラッキーだね、と。
会社では初めて社内表彰され、
失明してからは自治体で初の障害者団体を作り、
「女性で初めて」とか「市内で初めて」とか、
とにかくあれもこれも、みんな「初めて」だった。
SNさんには、「○○初」がとてもしばしば、ついてくるのだ。
初めて、というのは
「それまではありえなかったことが、あるようになる」
ということだ。


SNさんは、やってみたいことはいろいろあるんです、と言う。
たとえば、身体障害者が文化活動をしたり、
リハビリができるような施設を運営してみたいんです、
視覚障害聴覚障害車いすの人なんかも
お茶やお花、絵を習ったり、そういう場を作ってみたい。
目が見えない人や耳が聞こえない人が、
「ただ生きる」のではなく、
「楽しく生きる」というのをやりたいんです。
昔、仕事でフジテレビの社屋にいったら、壁に
「楽しくなければ仕事じゃない」
って書いてあったのね。
起きてる時間のほとんどが仕事なわけでしょう、楽しく仕事をしなければ
たしかに、よくない、と思った。
私もどこか、ゲーム感覚で仕事をしていたから、楽しかったんでしょうね。
成果を挙げたり目標を達成したりすることが楽しかったんだと思います。
それを今も思い出すんです、だから、
目が見えないというのを、ステータスとして楽しんでやろう、とね。


障害者をもっと理解してほしい、障害者は理解されていない、と
よく言われます。
たしかにそうなんだけれど、
でも、最近は、健康な人だって、
自分の親のことや子供のことすら満足に理解できていないでしょう。
それなのに他人の障害者のことなんか解るわけがないと思うんです。
だから、もっと障害者の側からも発信していきたい、
今まともに発信できているのは乙武君くらいでしょう、
少しずつ浸透させていこうと思っているんです。


SNさんは、ある時、カラオケスクールに通った。
カラオケを習うのでも、普通の人のところに行くんです。
目が見えないのにどうするのかなーって、最初はみんな見ているのね。
譜面は読めないからしばらく黙っているけど、
テープで録って何回も聞いて、次の時は歌えるようになっています。
みんなでレッスンの後、「カラオケ行きましょう」というときも、
私も一緒に行きます。
私は歌詞が読めないし、曲を選ぶ本も読めないし、
みんな最初は、どうするのかな、って心配するけれど、
やってみればわかるんです、
知っている曲ならちゃんと歌えるし、
歌詞をそばで小声で読んでもらったりすれば、よく覚えていない曲でも歌えるんです。
みんないっしょにやっているうちに、
視覚障害者でも、こういうふうにすればできる、と解ってきます。
そういうふうに、理解してもらえばいいんです。


よく、いろんな団体が「障害者の集い」のようなイベントをやって、
一般の人に「参加して下さい」と呼びかけています。
でも、あれは来る人も限られているし、
なかなか「理解」や「浸透」には繋がらないと思うんです。
それよりは、障害者がひとりで、
フツウの集まりにぽんと入っていった方が早い。
自分一人で、みんながフツウにやっているところに入っていく、
という努力をするところに、人が、感動するんです。
感動するところに、理解が生まれます。


自分一人で入っていく努力に、人が感動する。
感動するところに、理解が生まれる。
この言葉には、体験的裏付けのずっしりした重みを感じた。
いやな思いをすることもあっただろう。
悪気のないふとした行為に傷つくこともあっただろう。
「みんな」と一緒に足並みを合わせることができないことに、
焦りや不安を感じたこともあったはずだ。
それをひきうけるのはまさしく、「努力」に他ならない。
そんな努力を見た人は、心を動かされる。
人の努力に心を動かされる、というのは、不思議だが、事実だ。
スポーツが人の心を動かすのも、そんなところからくるのだろう。
スポーツではかならず、
負けて傷つく人がいて、無力に苦しむ人がいる。
さらに、同じように苦しんだ勝者がいて、
その苦痛と強情に、人は心を動かす。
苦しめるものと、苦しむもの。
そのことに人はなぜか、心を動かされるのだ。
これは、どんな説明からも、
どんな「情報提供」からも得られない「理解」だ。


私には、苦い思い出がある。
10年ほど前、会社からの帰り道、
駅のホームで、白い杖を持った人を見かけた。
帰宅時のラッシュアワーだったが、
その人にとってこの駅は慣れない場所らしく、
立ち止まって戸惑っているふうだった。
私は、その人に手を貸したいと思った。
でもどうしていいかわからなくて、
肩にいきなり手をかけて、階段のほうに手を引いていった。
ホームに階段は一つで、電車を降りたらそっちに行くしかない。
改札の点字ブロックのあたりまできて、
その人はピンと来たようで、ありがとうございます、と言った。
私は、やっぱり動揺していて、はい、とだけ、
小さい声で答えて、その場を離れてしまった。
なんだか自分が偽善者のようで恥ずかしかったのだが、
その人から離れて階段を下りた瞬間、
感電するみたいに気がついたことがあった。
その人は、「耳は聞こえた」のであった。


私は、まず始めに、
お手伝いしましょうか、と声をかけるべきだったのだ。
どうすればいいか聞くべきだったのだ。
そして、声をかけながら進むべきだったのだ。
目が見えなくても、耳は聞こえている。
そうじゃない人もいるだろうけれど、
その人の場合、私が最初に解ったのは、白い杖によって
「目が見えないのだ」
ということだけだった。
であれば、声を先にかけなきゃいけなかったのだ。
こんな簡単なことが私には解らなかった。
私は生来、親が呆れるほど臆病で、オマケにとても勘の悪い人間で、
だからこのときも、およそ考えられないポカをやらかしてしまった。
私は、どうすればいいか、わからなかったのだ。
何かしたい、と思ったけれど、
同時に、その人を恐れてもいたのだろう。
人は、理解していない対象を、ワケもなく恐れる。
臆病な人間ほど、そうなる。
だから、少し考えれば解ることが解らなくなる。
理解していない、ゆえに恐れている、ということは
一つの差別的態度だ。
私はその人を無意識に差別し、そして
無言のままどこかへ連れて行くという恐怖を味わわせ、
挨拶もまともにしない、という
まったく失礼な態度を取ってしまったのだ。
そのことに気づいたのは、全てが終わった後だった。
自分がやったことに対するショックで、
10年経った今でも、忘れることができない。


一緒に動いて、時間を共有する、ということが大事なんです。
そうSNさんは言う。
私はね、耳が聞こえない友達がいるんです。
耳が聞こえない人と目が見えない人がどうやって話すと思う?
とSNさんは悪戯っぽく笑った。
耳が聞こえない人は、手話でしゃべる。
でも、SNさんには手話は見えない。
SNさんは、話すことは問題ないし、声も聞こえる。
でも、聴覚障害者にはうまくしゃべることができない。
とても訓練を重ねてフツウに声が出せる人もいるけれど、
そうじゃない人も多いです。
普通なら、聴覚障害者と視覚障害者でコミュニケーションとろうなんておもわない、
でも私はやってみるんです。
はじめ、手話通訳の人が間に入り、SNさんもゼスチャーを交えながら話した。
相手は唇を見て話を読み取ることができるので、
だんだん、対話が成立するようになった。
最初はこんなふうに、適当にゼスチャーでやってみたんです、
そしたら、手話ではそんなふうにしない、でもわかる、って、
相手はとても笑ってました、
本当はこういうふうにするのね。
そういって、SNさんは、いくつか手話をやって見せてくれた。
耳が聞こえない人のための手話を、
SNさんは、私の目の前で、いくつか、やって見せてくれたのだ。
見えない目、その前で。


彼女はそれを、見て覚えたのではない。
おそらく、手をとって、こうするのよ、と教えてもらって、
それで覚えたのだろう。
あるいは、言葉で説明してもらうこともあったかもしれない。
でもそれは、例えば私が手話を覚えるのとは違う。
私なら、誰かがやっているのをみて覚えることができる。
彼女はそうではない。
でも、そこに彼女の優しい手話が再現されていた。


選択。
彼女は、常に選択を重ねてきた。
目がもし、見えていたら、
夫にも娘にも、こうやって感謝してないと思います、
日々ヘルパーさんたちと関わっているけれど、
目が見えたらそんなこともなかったと思う。
目が見えていたらやっていないことをいっぱいやっています、
自分のあり方には、満足しています。
選択が間違っていたとは、思っていないんです。
彼女はそう言った。


仕事に打ち込み続けたことも、
結婚し、お子さんをもうけたことも、
もしかしたら失明後に死を決意したことさえ、
彼女のいう「選択」であるとおもえた。
それらは、正しいとか間違いとか、
そういうことではもはや、はかれない気がした。
人間の「選択」はもしかするとすべて、
そういうものだと言えるかもしれない。
要するに、いい選択と悪い選択というのがあったり
正解と間違いがあったりするのではない、ということだ。
じゃあ、なんなのか。


そこに選択する人間がいる。
そして、その選択が未来に引き起こすことは、誰にも解らない。
それらを引き受けて、更に新しい選択をする、
そのくり返し。
未来を宝くじを当てるみたいにして
「正解を当てよう」と思って「選択」するのだとすれば、
彼女の「選択」は、外れた、ともいえる。
なぜなら、選択の際、
彼女は「失明したい」と思ったわけではなかったからだ。
でも、彼女がいうように、私から見ても
彼女の選択がどこかで間違っていた、とは、言えない気がする。
彼女が選択してきたのは、「未来への期待」ではなかった。
少なくとも、今彼女が後悔していない「選択」は
未来に関するものではなかった。
それは、
「今」
を選んでいたのだった。
さらにいえば、そこで選択されていたのは、
おそらく、「人」だった。


「人」とは、
自分を取り巻く他者であり、かつ、
もちろん、自分自身である。


おそらく。
だから、彼女の中に、あの「怒り」がなかったのだろう。
私はこの第1章の中で、
彼女の中に、怒りがないことに驚いたと書いた。
いろいろな条件があり、制約があり、
社会通念があり、文化から受け取る価値観がある。
それは、誰にでもある。
自分では選べない。
でも、自分で選べることも、多少はある。けっこうある。
SNさんは、迷い悩みながらも、
最終的にはつねに、自分で選べるところを、選んできていた。
少なくとも、選んできた、と認識している。
だから、あの「選ばされなければならない」という怒りからは
自由でいられたのではないか、と思った。
これはどういうふうに確かめたわけでもない、
単なる、私の個人的な仮説だ。

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インタビューの終わりに、
SNさんに、何か聞きたいことはありますか、
と聞かれて、私はふと、ワケのわからない質問をした。
「目の見えない人は、どういう感じで恋をするんでしょう、
 目が見えなくても、恋をすることはありますよね」と。
これは大変おかしな質問だった。
SNさんには素晴らしい旦那様がいるのであった。
でもなんとなく、聞いてしまった。


SNさんは笑って、そうよ、目が見えなくても恋愛はしますよ、
と答えてくれた。
たとえば、よく「夢を見ることがありますか」と聞かれるんです、
夢は、目が見えていた時と同じように、ちゃんと見ます。
人は映像として出てくるんです。
周りから聞くその人の様子と、話した時の感じ、
それから、その人と似た声の人の顔とかを思い浮かべて、
それをミックスして、イメージを頭の中に作るんです。
私の中には、ゆかりさんのイメージもちゃんとありますよ、
娘から、とても若くて、細い人よ、と聞いていて
声の感じとかかから、イメージがちゃんとあります。
夢にも映像で出てきますよ。
でもそれが実物と似てるかどうかは解らないけれど。
もし私が見えるようになったら全然違うのでびっくりするかもしれない。
そういって、SNさんは笑った。
中途失明だからそういうふうになります、
生まれつき見えないとなると、それは難しいでしょうね。
でも、本当に生まれながらに一度も見えない人、って、
実際、そうたくさんはいないんです。
ホントに小さい頃に少しだけ、とかでも、
光を感じたりしている。
だから、多分その記憶を使って、
イメージをつくる人がほとんどだと思います。


そうやって、人から聞いたその人の印象と、声の感じでね、
だれかが「あの人はステキよ」と言っている人が近くに来ると、
ドキドキしたりします。
話題の豊富さとか、ちょっとした気配りとかね、
目が見えないのを察して、手を取ってカップを持たせてくれたり、
トイレを探してキョロキョロしてたら、
女性をみつけてきて、案内を頼んでくれたりね、
そういう心遣いに触れると、ああ、素敵だなって思いますね。
好みを覚えていて、さりげなくそういう場所に連れて行ってくれたりとかね、
そんな人に接したら、きっと、若い人なら、
感情がわーっと湧いてくるんじゃないかしら。
目が見えないから、顔の善し悪しとか、アルマーニのスーツだ、とか、
そんなのわからないものね、
だから余計に、その人がどんな人か解るんじゃないかと思います。
なるほど!と私は歎息した。
確かに、優しさや心遣いのありかたは、
目が見えないからこそ、逆に、わかりやすいのか、と思った。


目が見えないから、目に見えないものは余計に見える、というかね。
聴覚障害者が結婚したら確実、というけど、
でも、離婚している人もいるわよ、やっぱり、
勢いで、とか血迷って、とか、結婚は、考えてみたらみんな同じだわね。
やっぱり、恋は盲目なのね、とSNさんは笑った。
明るくて、楽しそうで、どこかスコーンと突き抜けた軽さのある、
美しい笑顔だった。
彼女はいつもこういう笑顔で笑う。


その向こう側にいったい、
どんな思いが折りたたまれてしまい込まれているのだろう。


2時間のインタビューを終えて、
SNさんの家を辞した。
玄関先まで、SNさんは見送ってくれた。
帰り際、握手、というふうに、SNさんが手を差し出した。
私は、その手を握った。
細い手ね!と彼女が言った。

    • -

帰りの電車の中で、つらつらと考えた。



私は今まで、
だれかと握手して、それがどんな手か、
こんなふうにハッキリ意識して感じたことがあっただろうか、と思った。
どうも、そういうとき、私はとても緊張してしまうのだ。
だから「感じ取る」ような心の余裕がないのかもしれない。
もしまた、いつか、
誰かの手を握ることがあるなら、そのときは
その手がどんな手なのか、
感じ取れるだろうか、と思った。


手をぎゅっと握る、体に触れる。
このことが私にはまだ、どこか、怖い。
私は神経質な人間とはほど遠く、
大雑把でおっちょこちょいな人間だが、
たとえ握手でさえ、だれかの皮膚に触る時には緊張する。
これは、決して相手の体が怖いのではなく
自分の手の感触が相手にとって不快なのでは、と瞬間的に恐れて、緊張するのだ。
接触は、跳躍に似ている。
ある線を越える。
それが簡単な、ごくビジネスライクな握手だったとしても。
相手が自分を不快に思わないという想定を、
自分で、目をつぶってガケから飛び降りるみたいに、
信じなければいけないのだ。


もちろん、そんなこといちいち気にしてる人は少ないと思う。
でも、いやなヤツと握手したら手を洗いたくなる、っていうのはあるだろう。
握手する時いつも感じる、
あの、わずかな躊躇を「思い切って」握手する感じ、
あの感じは、私の中では「選択」のイメージと繋がっている。
何か目の前のことが選択される、そのときの感触は
人が迷いなく握手する、という感覚と似ている、と、何となく思える。
それは未来にも過去にも関係がない、
あくまでもこの目の前にある何事かが
ごくシンプルに、ストレートに選択されているのだ。