石井ゆかり@筋トレのブログです。
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あかるさ



何か起こりそうな朝の空。

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悲しい

さびしい

ちがうなあ、と思った。






さびしいっていうのは、何かを求めていて、
その求める何かは、「イイ」んだな。
なにかいいもの、肯定できるものがあって
それがないことを「さびしい」と感じるわけだ。
だから、さびしさは
その「なにかいいもの」が手に入れば、瞬間的に終了する。
解決の可能性がその思いの中に仕込まれている。


悲しい、は、対象がない。
「悲しい」はただ、ひたすら、その感情だけを意味していて
それをすぐに解決する方法はない。
悲しい、という気持ちは
もはや、なにも求めていない。


さびしい、うらやましい、っていうのは
手を伸ばす対象があって
その対象は、傷ついていなくて宝物みたいだ。
さびしがっている人も、傷ついていない。
希望はそのままに保たれている。
一方
悲しい、という思いには
手を伸ばすということがない。
解決しないし、終了しない。
厳然とそこにあってうごかず、何も望んでいない。


さびしい、には、期待や希望がある。
でも、悲しい、は、絶望している。
さびしい、は肯定的な感じがする。
悲しい、は否定的な感じがする。



さびしさのことがある話に出てきたとき、
あれっ
と思ったのだ。


このあかるさはなんなのだろう、と。
さびしさは、無垢であけっぱなしで、開放的だ。
そこに何かが入る余地がある。



悲しみは、何も入ってこない。
悲しみそのもので満たされてしまって、もう何も入ってくる余地がない。


さびしさというのは、対象を否定しないのだ。
だからオープンで、イノセントなのだ。



だから、その人が「さびしさ」を語った時、
私は、ほの白い、清らかな明るさみたいなものを感じたのだ。
ちいさな子供がだれかの不在をさびしがる時、
子供はその人を責めていない。
寂しがる子供は期待に満ちてもいて、
待ち受けたその人が帰ってくればただひたすらうれしいだけだ。
責めたり疑心暗鬼に陥ったりしない。
悲しみは、そうじゃない。
ちいさな子供はさびしがるけど、悲しまない。


さびしかったですね、とか
さびしかったんでしょうね、とか
そういうふうに語られるとき、
さびしさを感じていたその人は、全くけがれがなく、希望を持っていて
自分が望むその対象を肯定している。
その対象が自分を肯定してくれるだろう、という希望まで持っている。
何かがなくてさびしい、というとき、
その人はその「何か」が、大好きなのだ。
その「好きである」ということにいささかのひびも入らないから、
それがないということがさびしいのだろう。
だからそこには肯定的感情の持つあかるさがある。
かわいらしさがある。
純真さがある。
対象に対する性善説がある。


悲しみには、それがない。
自分を悲しませたものは既に
自分を否定していることが解っているのだ。
だから、さびしくはない。
悲しいだけだ。
その対象がもし、戻ってきたとしても
その対象がもはや自分を肯定しないことを知っているから
そこには希望が残らない。
悲しみとはそういう気持ちのことだ。
私は、悲しみは、しばしば感じてきたけど
さびしさという気持ちはあまり感じたことがない。



さびしがれる人というのは
強くて、他者に対して肯定的なのだ。
希望を持っていて、オープンなのだ。
だからさびしがれるんだろうな、と思った。
さびしがっている人は、かわいらしくてきれいだ。
あかるくて純真で、
雨上がりの水たまりのように光って見える。