石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

10th-はなちゃん


インタビュー企画、10人目。
はなちゃんは24歳の女の子である。

私は、年下の人にインタビューするのは初めてではないし、
基本的に、年齢に関係なく敬語で接する方がいいと考えている。
でも、私には妹が2人いるせいか、
どうも、年下にはすぐに砕けてしまうところがある。
偉そうに見えたらいやだなと思いつつも、
なんとなく口調から敬語や丁寧語が外れてしまう。


そういう、私の側のクセもあるのだが、
それ以上に、はなちゃんは「ちゃん」と呼びたくさせる人だった。
24歳というのも、「女の子」と称するには
失礼に当たる可能性もあって微妙な年齢なワケだが
はなちゃんはどう見ても「女の子」というしかなかった。
それは幼いとか、若く見えるとか、
そういう「条件」による印象ではない。
「女の子」で、「はなちゃん」。
それは、見た目の若さとか年齢差とか、
そういう相対的スペックから計算される関係性上の呼称ではなくて、
彼女のアイデンティティの中に、セルフイメージの中に、
ファッションの中に、行動様式や態度の中に、
しっかり組み込まれた一つの色であり、認識であった。


吉祥寺の喫茶店で待ち合わせた。
初対面のはなちゃんの印象は、まず、とても明るい、ということだった。
笑顔が五月の晴れた空みたいに明るい。
明るさに揺らぎがなくて、安定している。
こういうふうに、ぽんと最初から感情を外に表すことは、
誰でもできることではない。



いわゆる世間でいう「営業スマイル」は、
「感情表現」ではなく「演技」だ。
でも、彼女の笑顔は、感情表現以外の何ものでもなかった。
話の中で、この笑顔が更に弾けるように笑うと、
頬のあたりにガイア的なものが透けて見える。
地母神的なもの、
素朴で揺るがない、何に価値があるのか潜在的に知っている、
人生の土台となる、強力な女性性だ。
そこには、刻まれるペースがあり、
痛みや傷、変化などをみんな飲み込んで変容させる、
沼のような機能がある。
たとえば、田舎に旅行に行ったとき、
その土地で長年幸せに住み暮らしている女性がしばしば持っている、
きよらかで厚みのある、あたたかい表情がそれだ。
それは日常の中でたしかに培われていて、いつも変わらなくて、
それに触れる人々に、居場所を与える。


はなちゃんは、ミュージシャンである。
いわゆるシンガーソングライターである。
ピアノを弾いて、歌を歌う。
はなちゃんが3歳の時、お母さんがはじめて彼女に
「これがメリーさんのひつじよ」
とピアノを弾いてみせた。
そしたら彼女はピアノに向かって
「これが、悲しいメリーさんのひつじだよ」
と、短調にかえて弾いてみせた、という伝説がある。
そのくらい、生得的にピアノが得意だった。
生まれてから小学生くらいまでは、
意味がわからないくらい元気な子供でした、と彼女は言う。
だから、周囲からちょっと浮いてしまって、
友達とうまくつきあえなかったんです。
でも、教室でピアノを上手に弾くと、
みんなが自然に集まってきて
「これを弾いてみて」「あれを弾いてみて」って言うんです、
どんな曲でも一回聴けばすぐに弾けるんです、
みんなが寄ってくるのがうれしかったんですね、
ピアノを弾くことは私にとって
子供の頃から、人と関わる手段なんです。


はなちゃんは、中学ではあまり学校に行けなかった。
お父さんの仕事の都合で海外にしばらくいて、
帰ってきた後、日本の学校になじめず、
登校しなくなってしまった。
そんなころ、バンド「Judy and Mary」に出会った。
その音楽に衝撃を受けて、すぐにファンになった。
ファンのコミュニティに参加し、友達ができた。
みんな年上だったけど、学校で喪失した元気を取り戻すことができた。
そのままでいいんだよ、とみんなが言ってくれて、
のびのび生きられるようになった。
16歳の頃、家を出て恋人の家に転がり込んだ。
といっても、親御さんとの確執などはなかったそうだ。
それからいくつかの場所を転々として、
今は一人で生活している。
音楽活動を始めたらすぐに玄人ウケして、「仕事」になっていった。
レコード会社のバイトと、ライブ活動と、CDの自主製作。
これで食べている。


はなちゃんの音楽は、
徹頭徹尾明るいキャンディーカラーのガールズポップである。
ジェリービーンズやチュッパチャップスが飛び出してきそうなキラキラの音楽をやる。
「死ぬほど元気」というのがキャッチフレーズなんです、
日本一元気でハッピーなシンガーソングライターになりたいんです、
「元気だ」と、狂ったように言いたい。
彼女はそういうふうに、最大級の言葉をよく使う。
自分をそっちがわに追いつめていって論破するみたいに、
論破するというよりは、
一切の反論を封じ込めるために腹の底からどなるように、
最大級の言葉で、「元気」を自分に課している。
好きな人のことは99%まで理解したいと思う、受け止めたいと思う。
恋の話をするときも、そういうふうに言う。
99%。
めいっぱい。
アクセルをとにかくいっぱいに踏み込んでおこうとするのだ。
そうじゃないと足りないような気がするのだろう。


彼女はミュージシャンとして今、認められつつある。
CDの売り上げも静かにのびつつあり、
プロの仲間からも評価され、レコード会社からも声がかかったり、
見え始めた明るい未来の方に精一杯手を伸ばして生きている。
自分のつくりだすもの、自分の体が生み出すもの、
自分というキャラクター、アイデアやカラー、力。
そういうもので、この「社会」に飛び込んで勝負している。
必死で勝負しているから、めいっぱいにアクセルを踏み込むのだ。
そのこと自体が彼女の「元気」の一部になっている気がする。


あえて、誤解を恐れずに言うなら。


考えてみれば、女の子はみんなそうだ。
二十歳前後で「社会」にぽんと飛び出して、
自分の才覚と魅力とパワーでなんとかして
「社会」の中で居場所をつくり出さなければならない。
「社会」は大人の欲望や暗黙の了解や幾多のルールとパワーのジャングルで
なんだかんだいってもまだ痛烈に「男社会」の「タテ社会」であって
そこで徒手空拳、一番弱い存在としてそれでも、
戦っていかなければならない。
必要とされることの快感が不安の中でからまわりし、
選ばれることと選ぶことがいつもくるくるすり替わっていく。
モノみたいに扱われることもあれば、
道具にされたあとお役御免とばかり放り出されることもある。
逃げているのか戦っているのか判然としないまま、
それでも目をつぶって賭に出なければならないこともある。
くたくたになるまで闘って、いつか気がつくと
自分の居所が社会の中に、うまれている。
人と人とのつながりがそれをつくり出す。
だが、そこにたどり着くまでに、
どれほどの血を流してみんな生きているだろう。
この子はそこに飛び込んで今まさに、
素手でハシゴの一段一段を掴みながら上っているのだ。
その感じは、自分の体感としてありありとよみがえらせることができた。
かつて私も通ってきた道だ。
そして、今もなお、歩いている道だ。


はなちゃんは何度か、
石井さん意地悪なこと言いたいでしょう、と言った。
私はそんな顔をしてたんだろうと思う。
はなちゃんの、めいっぱいの「必死さ」を感じるほどに
24歳の頃の自分をありありと思い出していたからだ。
あのころの私は、恥ずかしいほど傲慢で、プライドが高くて、
とんがっていてナマイキだった。
でも、とにかく私も、私なりに必死だったんだ、と思った。
ワケのわからない世の中のパワー、ワケのわからない自分、
いろんな人の欲求の中で、評価されたりおとしめられたり、
ぐらぐらして、完全に自分の位置を見失っていたけれど、
でも闘い続けていた。やめなかった。
いまもその延長線上で、悪あがきしている。


はなちゃんもすごくとんがっている。
世の中の流れを察知して、
今発信しなければ、と思えるメッセージが降りてくる時があるんです、
とはなちゃんは確信に満ちて言う。
はなちゃんのこの勇ましいとんがり方は、
いやらしい感じは少しもなく、ひたすら清新だ。
若い時の「定義」は、しばしば、
独りよがりだったり、わかったつもりだったりすることもある。
それでもどうにかして言葉を探して、当てはめて、
自分の中に信じられるフレーズを集めていこうとする。
こうやっていくしかないのだ。
ナマイキをひたむきにやっていかないと、
ナマイキじゃないところまでたどり着けないのだ。


私は、10年前の自分のナマイキさをどこか
ずっと恥ずかしく思いながら生きていたけど
でも、ああいうふうに高慢にいきがって、断定し続けていなければ、
つまり縄ばしごを登るみたいに、ひとつひとつ素手で捉えていかなければ、
先に進めなかったんだろう、と思う。
その必死さがあったればこそ、
私のナマイキさも多分、こんなふうに、
不思議な生き生きした光を放つこともあったのかもしれない。
そういうふうに見てくれた人がいたから
ここまでこれたんだろう。
かつてほどひどくはないとはいえ、
私は今でも相当にナマイキだし、
高慢ちきで知ったかぶりで自意識過剰だ。
無意識にそれをむきだしにしてしまって、1日後にそれに気づいて
しょっちゅう赤くなったり青くなったりしている。
10年後の私が今の私を思い出したら
言いたいことはさぞかし、たくさんあるだろうと思う。
それでも、ひとつひとつ
自分で結論して、定義して、言い放っていかなければならない。
このひたむきなナマイキが、このとんがりかたが、
すべて、はしご段のひとつひとつなのだ。
必死で次のひとつを掴んで、
それを踏み台にして、またその先をめざす。


ミュージシャンであるはなちゃんは、
日々、いろいろな人と出会う。
文章を書くこととは違い、
音楽はとにかく、関係者が多い。
たくさんの人が集まって仕事をする。
それも、とても流動的だ。
初対面の人に向かってつねに
「こんにちは、ミュージシャンのつるうちはなです」
と言い続けなければならない。
はなちゃんはそこで言うべきことをつねに
責任持って精一杯、鉄壁のように作り上げている感じがした。


私は、人に愛されたいという気持ちが強くて、
相手がしてほしいと思っていることを察知して
その通りにしてしまうんです。
で、あとで自我がバクハツして、相手を傷つけたりしてしまうんです。
誰からも、この人は自分のことをわかってくれる人だと思われてしまうんです。
でもそれは本当の自分じゃないんです。
自分の心を傷つかないように守りたくて、それで
いわばサギみたいなことをしてしまうんです。
それをやめたいとおもっているんです。
今日は、それをしないようにしようと思ったんです。


彼女は、このインタビューの冒頭、そういうふうに言った。


この構造は私にもおなじみだ。
私の中にも同じような仕組みがある。
この話には、自分の問題をどうにか捉えようとして
苦しんで、腑分けして、引っかき回して見つけ出そうとした
その手のあとが見える。
ちゃんとその辛い作業にとりくもうとしてきたから
そこまでたどり着いたのだ。
借りてきたんじゃなくて、自分で捉えたのだ。
そのプロセスがちゃんと感じ取れる。


もちろん、ちょっとひっかかるところもある。
たとえば、
「自我」とか「本当の自分」ってなんだろう、
「解ってくれる人だと思われる」ということばに含まれる、
無意識の「見下す」匂い、などについて。
その出来事は確かに、起こっているのだろう。
それはウソじゃないし、そう言われたこともあるに違いない。
だけど、それがまだ、「そのまま」で放り出されていて
自分にとって甘いものがまだ、取捨選択されている。
そこには、「他者」がいまだ、公平な形では、登場していない。


実は、この言葉をメモしながら、
そのひっかかりを自分の中に感じながら、
更に私はもうひとつのことに気がついて、とても驚いていた。
それは、この引っかかる感じのことを
私が、「いやだな」「めんどくさいな」ではなく、
「ういういしい、かわいい」と感じている、ということだった。


かつての私ならありえないのだ、
青臭いような若さや、若いが故のとんがった感じは
私は苦手だったのだ。
それらは、ガマンしたり見て見ぬふりをしたりする対象であって
かわいいとか、おもしろいとか、わかわかしいとか、
そんなイイ印象で捉えたことがなかった。
でも今の私は、
この子が若くてとんがってるなあ、とおもいながら
それを生き生きしたいいものとして感じているのだった。
そのことが全く意外で、新鮮だった。


それには多分、2つの理由がある。
1つは、はなちゃんの持っているものだ。
彼女の必死なほどの「元気さ」の裏に、
ある透き通った、純粋な意志と価値観が厳然とあるからだ。
よきものでありたい、
よきものをめざしたい、という
無垢な良心が、大きな水晶玉のように体の中にあって、
それはクリスチャンの聖者たちがもっていた魂のように
素朴で、ストレートで、頑固で、どうしても汚れないのだ。
光を見て光の方に行くことにためらいを感じない人間、というのが
世の中には、いる。
はなちゃんはそういうタイプの人間なのだ。


もうひとつの理由は、
私自身が、これでも少しは大人になった、ということなんだろう。
思うに、大人、というのは、子供の延長線上にあるのではない。
子供がグラデーションのように大きくなって大人になる、
というイメージが普通なんだと思うのだが
どうも最近、そうじゃないような気がしてきたのだ。
大人というのは、
子供が成長したもの、ではないらしい。
ではなにか、というと
それは、「関係を取り扱う力」であるような気がする。
それをたくさん持っているほど、余計に大人なのだ。
子供は「自分」だ。
大人は「関係」なのだ。
すごく乱暴な言い方だし、
たぶん3年後には違うことを言ってるかもしれない。
でも、今はそういうふうに思っている。


この稿を書くために、はなちゃんのことを考えていて
ふと、思い出したものがある。
それは、哲学者・梅原猛の文章だ。
彼の著作を読むと常に、そこに、ある「熱狂」を感じる。
彼自身が自分の発見や思考に興奮していて、
その興奮をなんとか伝えようとする感じが、
自分と同じ感動を読み手に感じさせたいという強い衝動が、
ギラギラと伝わってきて、そして
彼のその衝動は読み手である私をちゃんと「乗せ」てしまうのだ。
彼の感動を共有して感動してしまうのだ。
ある本の、文庫化のあとがきだったと思うが、
彼がこんなことを書き添えていたのをうろおぼえに記憶している。
これは若い時の作品で、今は違う考え方をしていて
この論文の言ってることが正しいとは思わないけど、
今読み返すとこのときの興奮した感じがよみがえってくるし
それが文庫化されることには何らかの意味がある気がする、と。


自分の発見に感動し、体験に興奮し、
それをめいっぱいに表現する時、
聴衆や読者はそれに飲み込まれて興奮を味わう。
はなちゃんは、
ふだんは自分の心をまもろうとしてしまうけど、
音楽をやっている時は違うんです、と言った。
ライブでうたっている瞬間は、
頭の天辺から指先から足の先まで、愛でいっぱいになるんです、
発信したい、与えたい、という気持ちでいっぱいになるんです、
ビリビリするくらいそうなんです、
全身が 「I love you」になるんです。
彼女のライブパフォーマンスを見て涙を流してくれるファンもけっこういる、
と彼女は言った。
はなちゃんが元気にうたえばうたうほど、切なくなって泣けてくる、
と言われるんです。


私は「愛」という言葉を、
占いの中では、よく使う。
でも、私の中でこの言葉は
何となく遊離していて、はじかれていて
自分のものではない、ということがよくわかっている。
石井さんは愛に満ちた人ですね
って不思議と、いろんな人に何回も言われる。
でも、そう言われて、うなずけない。
嫌じゃないし、そう思ってくださったことはとても嬉しいんだけど
でも、
自分のなかに「愛」があるとは思えないのだ。
自分のからだを流れている血は
もしかして緑色なんじゃないかとときどき、思うことがある。
愛に満ちていますね
って言われると、
そんなのないです
と心の中で言ってしまう。
と同時に、
どこで、そう感じられたんだろう?
と、純粋な疑問を感じる。
私の書くもののどこに愛が感じられるというのだろう、
いったいなにが、「愛」と呼ばれてるのだろう、と。


はなちゃんは、「愛」という。
「愛情」といい、「I love you」なのだ、という。
元気で、愛していて、ハッピーなのだという。
傷つけられることは怖くてたまらないし、
恋をすれば結婚や子供といった「形」を欲求する自分を発見するし、
ときには愛されるために際限なく心にもないことを言えてしまうし、
それなのに、
愛が「ある」と言う。


「愛」
というのがなんなのか、私にはわからない。
というか、「愛」という言葉で表現しようとするその内容は、
人による、時と場合による、文脈による。
とにかくその単語が何か固有の意味を持ってるワケじゃない。
ただ、人々が「愛」というそのことばを用いることに
何で私はこんなにひっかかって、
反抗して、怒りを感じているのだろう、と
それはほんとにいつも、不思議だ。
たぶんみんな、「愛」という言葉を使う時、
「花のように美しい」という、その「花」と同じ程度の重みで
使っているだけなのかもしれないのに。


花のように美しい、のこの「花」という言葉について
それはバラなのかスズランなのか、白なのか赤なのか、なんて
ついぞ憤りを感じたことなんか私はない。
なのにその「愛」についてだけどうしてこんなに
私は、こだわるのだろう。


無神論者が神にこだわるように
私は愛にこだわっているみたいな気がする。


はなちゃんはてらいなく「愛」と言う。
私はそれをそういうふうには呼ばないけれど
はなちゃんが音楽をやっている時のその、
頭の天辺からツメの先まで何かで満たされてビリビリくる感じはよくわかる。
その感じが、たとえば
食欲が満たされるみたいな「満ちる」感じではないことも解る。
食欲や睡眠欲が満たされる時は、
自分の内側が満たされている。
満ちるうつわは、自分というもので、閉じている。
でも、あのビリビリくるような満たされる感じは
完全に外側に向かっている。
放出される。
ひらかれているのだ。
私はあの快感がビリビリ満ちる感覚を、なんて呼んでいいか解らない。
私は文章を書いている時それを感じるのだ。
いままさに、これを書いているこの瞬間にそうなっている。
はなちゃんはそれを「愛」と呼ぶ。
発信であり、与えたいという思いである、と言う。


たぶんそれらは同じ感覚のはずだけど
私はそれは愛とは呼ばないし
与えたいという思いだ、とは感じない。
ただひとつ、思い当たるのは
そこにはだれもいない、ということだ。
私がいなくなっている。
自分が消え失せている。
だけど、それだけだ。


もしそれが愛ならば
そこには「対象」があるはずだ。
私は何か書いているあいだ、
やっぱり、感覚的には、ひとりぼっちなのだ。
だからどんなにそれが、閉じた充足感とは違っていたとしても
それは「愛」とは呼び得ない。




はなちゃんは、私に、自分のCDを持ってきてくれた。
家に帰って、iMacにつっこんでRipした。
私は音楽に詳しくないし、耳もいい方じゃないとおもうけど
全然安っぽくない、と思った。
細部まで練られていて、とても丈夫だ、と思った。
はなちゃんが意図してる「元気」ってこういうことなのか
と、ちょっと腑に落ちた気がした。
それはスピードが速かったり大声で叫んだりするんじゃなくて
土砂降りの雨が降って翌朝、
出てきたばかりのひまわりの、弱々しいはずの芽がまったくへっちゃらで
きらきら水滴を輝かせてるような、そんなことなんだろう。


誰かに見せてもらったことのあるものと似たようなものを作る、ことと
誰も見たことがないし自分も見たことがないものを
自分が確かに見聞きしたものから作り出す
ということは、まったくちがう。
前者は技術だけでできるけれど
後者は、技術も必要だが、それだけ、では、不可能だ。
それがいわゆる
「生み出す」
ということで、
彼女はこれまでもこの先も、
一歩一歩はしご段を確かに掴みながら、それをやるんだろう、と
彼女の音楽を聴きながら、思ったのだった。

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