石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!


絶対的な悪
というのもないんだろうとおもうんだけど
「やっていいこととわるいこと」
というのはその境目の区別が難しいことがある。




やってる方にもリクツや事情があるし
完全に「悪」かというとそうも断定できないけど
でもそれをやられて迷惑に思う人や困る人が多くなると、
それが「悪」になる。


たとえば電車の中で、携帯電話でしゃべるのは現在「わるいこと」となっている。


そういや
電車の1車両の定員はだいたい、160人前後くらいなのだそうだ。
あの狭い空間に150人以上乗るのか・・・とおもったけど
ラッシュ時の乗車率って100%以上なワケなのだから
実際はもっと多く乗ってるのか
と思って
ちょっと唖然とした。
私は100人ちょっと入る大部屋で昨年、何度かレクチャーしたのだが
あの人数が全部、この車両1台におさまるのか・・・・・
と思ったら
むやみに息苦しくなった。



携帯電話で話す人も乗る
ということが前提になっている車両というのも
作ればできるのかもしれない。
たとえば、新幹線には「デッキ」があるからそこでできる。

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イイと思ってやったことが実は間違っていて
ある人の気持ちや人生をめちゃくちゃにしてしまった
ということを
経験している人たちがいる。
大事なものを失ったり、汚したりしてしまうこともある。
私も経験したことがある。
悪意や利己心でやったことじゃないことがしばしば
大事件になる。
その心の奥底には、利己心や虚栄心、恐怖心や傲慢や怠惰が隠されていることも多い。
でもやっているそのときはまったくそれには気づいていなくて
自分は正しいと思いこんでいたりする。
すごく積極的にそれをやっていたりする。


そういう出来事はものすごく悲しい。



キリスト教の聖者とか使徒とか呼ばれる人たちの中に
人生のスタート時は無軌道な、傍若無人で鳴らした人たちがいる。
神様なんか信じてないやんちゃな不良みたいな人とか娼婦とか、
または無神論者みたいな人たちが
何らかの衝撃的出来事を通して、改心する。
この、
「最初は普通より悪かったけど、突然その悪さを自覚する」
というプロセスに
多くの人が「聖なるもの」を感じる、ということなんだろう。
そういう物語が多い、ということは
そういう物語が人の心を動かす力を持っている、ということなのだろう。
最初からいい人がエライのではなくて
最初悪い人だったけどあとで劇的にいい人になる
というほうが、美しくて素晴らしくて聖なることなのだ。
自分の間違いを認めて悔い、そこからスタートする
というのは
そのくらい「美しい」と見える行為なんだろう。



でもそれは、そのくらい「レアケース」である、とも言えるのかもしれない。
人がやってることなら容易にそれがどういうことなのか見て取れるのに
自分がやっていることはもやがかかったように、よく見えないんだ。