石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

拝借。


ある人が、新しい仕事を始めるというので
その道のプロがすごく快くいろいろなことを教えてあげてる
という場面をかいま見た。


誰かが誰かの力を借りてるシーンを見るとなんか元気が出る。
両方とも一生懸命だと、なおさらだ。




人の力を借りるっていうのは
貸す方にとっても、借りる方にとっても、なにかこう
厳かなこと、という気がする。


思えば私も
そういう体験をしてきたな、と思ったら
ちょっとびしっと気合いが入った。



それは私のもののようであっても私のものではない。
教えてもらったことや助けてもらったことは、
授けてもらったこと
っていう気がする。


さずかる、というのは
なんかこう、自分のものになったけど
その形が崩れない
という気がする。
自分のものになると、
革靴は自分の足の形になるし
本のカバーは外しちゃうし
名前を付けたり、長い部分を切ったり、半分に折ったり、
とにかく最初の形からどんどん変えてしまうのだけど
「さずかったもの」というのは
変えようがない、という感じがする。
変えないままで、預かっている。
死蔵するわけにはいかないし、
ちゃんと使うのだけど、
変形はしない。
かといって工夫しないわけでもなくて、
なんというか
うつわ、みたいなものなのかもしれないな。


そういえば子供も「授かる」という言い方をする。
赤ちゃんを産んで初めて抱っこして顔を見た時、
「尊敬するような気持ちになった」
という言葉を聞いたことがあるが、
赤ん坊にはそんなふうに、なんかこう、
冒しがたい感じがあるっていうの
なんとなく、分かる気がする。
自分の体の中から出てきたけど
自分の力の及ばないところで作られてそれを預かった
っていう感じがするんだろうな。


私は子供を産んだことはないけど
いろんなものをいろんな人から
「授かって」
いるんだ、という気がした。
獲得したんでも稼いだんでも自分で創り出したんでもなく、
授かってるんだ。
宝くじみたいに、
当たった
っていうのと似てる。
それは努力の所産じゃない。
つまり
自力じゃない。


さずかる
ということには
授ける人が相手を選んでいる
という含意がある。
あてずっぽうに与えるんじゃなく、
相手がそれを授けるにふさわしい相手でなければ、授けることはない。
授けるということは
その相手を見込んで、授けるに値すると判断して、
授けているのだ。
だから授かる方は気合いが入るのだ。
授かったものにふさわしくあることが
授ける人から、期待されているからだ。
その期待に応えなければ、という気負いのようなものが
「おごそかさ」にむすびつくのだろう。



たくさん授かっていて
自分でできることなんかほんのほんの少しで
でも、自分でがんばってない時ほど
さずかりものを期待しちゃうのかもしれなくて
自分でがんばってる時は
借りられる力のありがたさに唖然としたりして
暗いところを見てると光の所在が分かるし
光を見ていると、暗闇がそこにあるということが分かる、っていうような
死を見ると生きていることの不思議さに気がつくし
生きていることに集中していると
死ぬまでの時間がホントに短いなと思えたりする、っていうような
そんなかんじなんだろう。