石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

9th-R子さん


インタビュー記事、9人目は、R子さんという女性にお願いした。
R子さんは、今までのインタビュイーとは違う。




今までの8人の方はみな、
ここで「インタビューに応えて下さる方を探しています」とお願いして
それで、手を挙げて下さった方々だった。
だから当然、私を知っていた。
私の書く文章、私の仕事のことを、みんな知っていた。


R子さんは、そうじゃない。
R子さんは、私が大学時代からずっとお世話になっている、
居酒屋さんの従業員である。
昭和48年ごろからそのお店で働いていて、今に至る。
私が生まれる1年前だ。
私はそこに過去10年越しで通っているにもかかわらず
わりと最近まで、あまりお互いに個体認識していなかった。
数年前、私の父が死んだあとしばらく
私はその店にしばしば、一人で訪れた。
そのころから、R子さんも私を顔見知りと思うようになった。


R子さんは、独特の雰囲気を持っている。
小柄で、つぶらな瞳に胡蝶貝みたいなあかるいピンク色の輝きがあって、
言葉には出身地の宮崎のイントネーションが混じり、
こんな言い方はうんと年上の女性に対して失礼だとは思うんだけど
とにかく、「かわいらしい」感じなのだ。
いや、
「可愛らしい」
とあえて、漢字で書きたい。
ラブリー、っていう英語単語があるのを考えると

この感触は多分、万国共通なのだ。
穏やかなあたたかさの中に、弾力に富んだハートを感じる。
ぎゅっと押すとぴゅんと戻ってくる、あのみずみずしい感じを、
いくつになっても失わずにきらめかせている人とそうでない人がいるけど
R子さんはまちがいなく、前者だ。



バタバタ目が回るみたいに忙しい1月の下旬、
1日の予定を終えて、途中下車して、なんとなくお店に寄って
いつものように文庫本をだして、読むともなくぼんやりしながら
すでに回を重ねてきた「インタビュー企画」について考えているとき
ふと、R子さんの姿が目にとまった。
この人の話を聞いてみたい
という衝動が、からだのなかにむくりと、
寝ていた犬が立ち上がるみたいに、起こった。
1杯の生ビールに勇気と根性を借りて
私は、思い切って依頼をしてみた。


取材
というのは、けっこうプレッシャーが伴うのである。
ただ、自分ひとりで考えたり思ったりしたことを書いてそれがボツになる
というのは、自分が悲しいだけだから、なんということもない。
でも、取材をして書く、となると
取材に応じて下さった方の好意とか善意が無駄になってしまうし
さらに、こちらが誤解したり勘違いしたりして
取材を受けて下さった方の気持ちに沿わなかったりしたら
それはそれで、心にしこりが残る。
つまり、取材を受けて下さる方への「責任」が発生するのだ。
もっといえば、
「取材したい」
というのは、何らかの想像や前提が動機となっている。
ようするに
「この現場やこの人はこういうふうだろうな、だから詳しく聞きたい」
ということなのだ。
この、最初の段階の想像や前提が
まるっきりカンチガイ
だった場合
取材しても、書くことがなかったりする。
取材するということは、文字通り
「材料を取ってくる」
ことなのだ。
レシピがなければ、材料をとることはできない。
レシピと材料がそぐわなければ、料理にならない。
ドジョウを捕りに海に行っても大失敗だし、
キャベツをとりに山に向かってもダメなのだ。
そういうカンチガイを自分がしているかどうか、
取材を申し込む段階では、判然としない。


私の記事を読んで私を知っている方なら
私が何を想像しているか、何となく想像ができるだろう。
そこにはある、淡いコンセンサスがある。
でも、ここで、
私の仕事や私の人となりについてほとんどなにもしらないR子さんに、
私の方でも、このお店の従業員であるということしかしらない状態で
「お話を聞かせて下さい」
とお願いするのは
ホントに危険と言おうか、思い上がったことなのだった。
でも、私はやってしまった。


まず、R子さんは私の仕事を知らないのだから
自分が何者かということをプレゼンしなければならない。
このころの私はそれを他の場でも感じていたので
自分の「名刺」をもつようになっていた。
肩書きは、「writer」とだけ書いた。
それを出して、R子さんの手が空くのを見計らって
声をかけた。
私は、文章を書く仕事をしてるのですが、
お話を聞かせて頂けないでしょうか。


今までは占いの本しか出したことがないこと、
(そのタイミングは、「星なしで・・」発売の1ヶ月半前くらいだった)
でも、占い以外の文章を書きたいと考えていること、
インターネットでインタビュー記事のシリーズをやっていること、などを
しどろもどろ説明した。
もちろん、出し抜けに思いついたので
既刊書や雑誌記事など、仕事を証明出来るものは何も持っていない。


でも、R子さんはすぐに、快くOKしてくれた。
怪しまれることもなければ、遠慮されることもなかった。
私のハナシなんか面白いかしら、という意味合いのことはちょっとだけ、言ったけれど
それはわずかで、基本的に、とても肯定的にOKしてくれた。
私は、万歳三唱したいほど嬉しかった。


お名前を教えてもらい、連絡先を書いたメモをもらい、
約束をして、その後少し飲んで、店を出た。
帰る道々、酔いが醒めた。
私は、今、
「占いライターです」
ではなく
「文章を書くことを生業にしています」
と名乗ったのだ、と気がついたのだ。
私の占いや私の文章を全く知らない人に、そう名乗ったのだ。
それも、仕事に関わる依頼をしたのだ。


多分、この瞬間に交通事故にあったら
ニュースではおそらく
「占い師」
という肩書きで報道されるだろう。
あるいは「自称・文筆業」とかになるのだろうか。
税務署には申告書類に「執筆業」と書け、と指導されたが
社会的には、まだ、たぶんそうじゃない。
でも。
私はとにかく、一歩踏み出したのだ。
一寸先が闇なのかガケなのかわかんないけど。


ビジネス
という言葉のおもしろさを思った。
人は自分の時間を割く。
ビジネスに割く。
ビジネスはbusyの名詞形で
busyは「忙しい」という意味だ。
ビジーです
というと、そのラインがふさがってたり使われてたりすることを意味する。
要するに
人間が自分をなにでビジーにするか、ということなわけだ。
生きている時間の一部を切り取って、まるっと、そのことに割く。
それが「忙しい」ということだ。
どうでもいいことに忙しくしたりできない。
つまりは、自分の生活のなにがしかの重みをかける選択をする
ということが
ビジネス
なのだ。
ひいては、
「我がこととして本気にする」
ということなのだ。
遊んでもらう
というのと
ビジネスで関わる
というのは
その真剣さと重さにおいてワケが違う。
向き合う度合いが違う。
自分が、誰かのことでビジー状態になる。
少なくともその時間帯、他のことを出来なくさせる。
独占する。
本気にしてもらうのだ。


      • -


1ヶ月半後、日程を決めにお店に行った。
週に2日はお休みがあるはずだったのだが、
話してみたら大変なことになっていた。
ちょうどその前々日、いつも厨房にいたIさんという男性が
急病で倒れた、というのだ。
お店は4人でシフトを組んでいて、定休日がない。
だから、1人欠けると、休めなくなってしまうのだ。
しばらくお休みはナシ、ということになったんです、と
まだショックが続いている感じで、話してくれた。
では、落ち着いたらあらためて、ってことにしましょうか、というと、
R子さんは、大丈夫、といった。
お店は夕方はいればいいから、昼間なら時間はとれるから、大丈夫なの。
そこで、2週間後の週末に時間を頂くことにした。


三鷹駅で待ち合わせて、駅近くのコージーコーナーに入った。
頭にスカーフを巻いて、胸元に、
大きな青く光るラインストーンのブローチをつけていた。
姪御さんのプレゼント、なのだそうだ。
そのブローチの色はとても鮮やかで、若々しく、
R子さんの雰囲気にとても似合っていた。
彼女には、なにかが「混じってとけ出してしまわない」雰囲気がある。
人の生活は、時間を重ねると
全てが混ざって、馴染んで、全体として一つのぬか床のようになってしまう。
何を浸けても同じぬか漬けの味になる。
だけど、弾力に富むハートの持ち主は
そんな「いっしょくたの一様」の状態に落ち込まない。
それがみずみずしさや若々しさをつくるのだ、と思った。
若い肌が水をはじくように、吸い込まないし、吸い込まれない。
それでいて接していて、ちゃんと反応するのだ。


R子さんは、九州は宮崎県の小さな町に生まれた。
10代の頃、ゴーッと煙を吐く汽車に乗って26時間かけて、
単身、東京に出てきた。
最寄り駅の近くに農協の事務所があって、
電車に乗る前に、そこで働いている両親に
「これから東京に行ってくるから」
と声をかけた。
親御さんは突然のことにびっくりして
「何しに?」
と言うと、彼女は
「就職しに」
と答えた。
当然ご両親はほぼ絶句するワケなのだがそれでもお母さんは
「イヤになったらいつでも帰ってくればいい」
と送り出してくれた。


東京に出ようと思ったのはどうしてですか、と聞くと、
R子さんはちょっと悪戯っぽいような感じで笑った。
若い頃、テレビの世界が好きだったの、
私が10代の頃はアメリカンポップスやGSとか、音楽がたくさんかかって、
それに憧れて、東京に行けば芸能人に会えると思ってね、
単純でしょ、その辺を芸能人が歩いてると思ったのね。
なんだかその話がとても楽しくて、可愛らしくて、明るくて、強くて、
私も自然に、顔がニコニコしてしまう。
彼女はそうやって、華やかな東京のイメージに憧れて、
毎日、宮崎で新聞の求人広告を丹念に探した。
勿論、東京の勤め口などそうそうないわけだが、
彼女はとうとう、製本屋の住み込みの募集を見つけた。
すぐに履歴書を書いて、出したら、返事が来たので
切符を買って、電車乗ったのだ。
フツウは親戚を頼ったりして行くものだ、とみんなに言われた。
若かったし、怖いもの知らずだった。


この、出し抜けの突発的な感じは、私はとても共感出来る。
私にもちょっと、そんなところがある。
イメージや夢を描いたら、それを実現するための段取りを一人で探し、
それを「手続き」のように考えて飛び込んでしまうのだ。
ふつうは、その世界の話を聞いたり、見学したり、調べ上げたりして
そのなかでじわじわと手掛かりを探していくんだろうと思う。
でも、私もR子さんもそれとはちょっとタイプが違っている。
要するにせっかちなのかもしれないし、
世界に対する不信感と信頼感の構造がどこか、
フツウとは反転しているのだろう。


東京に出てきて、製本屋さんに住み込みで働きはじめた。
住み込み社員といっても、家族でやっている工場なので、
家事全般もさせられる。
女中さん兼工員、というような立場だ。
朝8時の始業の前に、家の掃除や洗濯など、
社長家族の家の家事をしなければならない。
これを監督していたのがこの家のおばあさんで、
とにかく細かい、厳しい人だった。
R子さんは、ストレスから鼻血を出したりし、
あげく、極度の便秘を患ってしまった。
このせいで、便器が真っ赤になるほど出血したりした。


結局、耐えきれずに、辞めることに決めた。
アパートを借りて一人暮らしすることにした。
一人で暮らすなら、まかないつきの仕事がいい。
そう思って、知人を頼って、甘味喫茶のお店を紹介してもらった。
でも、ここも結構大変でね、やめたい、となったの。
とR子さんは言った。
「仕事が大変」
というのは、どうも、R子さんの場合、
忙しすぎるとか仕事がきつい、苦しいとか、
そういうことを言ってるのではないらしい。
彼女は何度か、「仕事が大変」になって、辞めているのだが、
それは、精神的なストレスなのだ。
だがおそらく、これが単純なグチにならない。
このストレスは、彼女の中で、身体に直結している。
つまり、どういう仕組みなのかは解らないのだが、
説明的な言葉になる前に、感情の吐露が起こる前に、
身体が先に反応してしまうのである。


この甘味喫茶もまもなく辞めて、
次に勤めたのが、銀座の中華料理店だった。
このころ、彼女は腎臓結石を患った。
この病気は、排尿器官の中に石ができてしまい、
それがつまって痛む、というもので、
私の周囲でも、ある程度以上の年齢の人の話によく出てくる。
さほど珍しくない病気でありながら、とても恐れられているのは
その痛みの激しさのためだ。
聞いたところでは、
本当にころげまわるほど痛い、らしい。
この店に来てから、相当、彼女は病院に通った。


この銀座のお店では、同僚の女の子がいた。
彼女はいわゆる「お天気屋」で、
理由は定かでないのだが機嫌が悪いとなると
ぷいとふくれて挨拶もしない。
この子のご機嫌の波に、R子さんはひどく悩まされ、
また、鼻血が出たりしはじめた。
思いあまって店長に、何度か相談を持ちかけた。
最初は、ああいう子だから気にするな、と言われていたが
どうしてもがマン出来なくて、何度か相談しているうち、
店長は、他のお店を紹介してくれた。
同じ銀座の、割烹のお店だった。


私は、
「そんなに大変だったのに、
 故郷に帰ろうとおもわなかったんですか」
と聞いてみた。
すると、彼女は笑って
「ないんですね、これが」と即答した。
東京に憧れて、誰にも相談せずにぽいと飛び出していく勇があり、
でも、人間関係の感情の触れ合いの中で極度のストレスを受け、
それが身体の症状に直接出てしまう繊細さを持っているこの人は、
でも、やっぱりものすごく強靱な面を持っているのだった。
この柔らかさと強さのコントラストが、
話の中に、目もくらむような鋭さを持って感じられた。
人の心の揺れに反応して、もう「大変」になってしまうのだ。
鼻血が出るし、便秘になるし、身体がいうことをきかないのだ。
でも、帰ろう、とは思わない。
R子さんが東京に出てすぐ、お母様は病気で急死していた。
妻を亡くしたお父様は、なかなか立ち直れなかった。


でもどうも、「帰る場所がないから帰らない」というのとは
R子さんのそれは、少し違っていた。
「身体に出てしまう」というのも、もしかしたら
「心」のほうが、苦しむことを跳ね返しているからなのかもしれない。
だから、最終的に肉体がそれを受け取って、
そこで、病気として表現し、
更にその病気を克服することで、
辛さを最終的には、解決しているのだ。
身体がめいっぱいになってその解決策をとれなくなると、
彼女は過去の環境にこだわらず、颯爽と「次」を探しに行く。
この恬淡とした、柳のような強さは、いったいなんなのだろう。
「生活力」とか「女の強さ」とかいう、あの動物的な感じとは違う。
むしろ、「矜持」とか「理性」とか、
そんな、完全に人間の思考や意識の側にある、
動物であることに飲み込まれないように戦う
あくまで人間的なシャープさを感じるのだ。


「人間的な」という時、そこには2つの使われ方がある。
一つは、
悲しみやうれしさなどがなまなましく非理性的であることを意味する。
もうひとつは、
自らの感情や感覚のなまなましさから
自らの意志によって離脱し自由であろうとする姿勢を意味する。
この2つは相反している。
一つの言葉に二つの意味が裏表にセットされている。
彼女の柳の枝のような、しなやかでソリッドで、ある種クールな強さは
完全に後者のものだ。
でもそれだけじゃない。


銀座の割烹料理の店では、さんざん仕込まれた。
大きなお店で、それまでの職場とはまるで違う。
料理の運び方から器の置き方、とにかく厳しかった。
辛かったけど勉強になりましたよ、とR子さんは言った。
板さんからたくさん叱られて、もうムリ、と思ったけれど、
しばらくして、慣れました。
このお店で、彼女は、
今のお店のマスターに出会った。
この前につとめていた中華料理店の主人と知り合いだったのが
割烹の雇われ店長だったマスターであった。
いわば、彼女がここにきた「伝手」にあたる。
店長っていうのはね、たいてい、
どこのお店でもずるけていて頼りにならなかったんですよ、
肝心な時にいなかったりね。
でも、ここのマスターはちがった。尊敬できる人だったの。


割烹でしばらく働いていると、
店長が、ここをやめて吉祥寺にお店をだすつもりだ、と言い出した。
店長の伝手で入ったR子さんに、店長は、
自分は一人で店をやるけど、Rちゃんはここに残ったほうがいい、
お給料も十分に出せないし、と言った。
しかし、R子さんは考えた。
ついていきたい、と思った。
そう言ってみて、店長に
「これだけしか出せないよ」と言われた金額は、
R子さんの生活からしてギリギリの額だった。
迷ったけれど、ついていくことに決めた。
なんといっても、マスターの人柄ですよ。尊敬できるんだもの、
やりがいがあると思った。
彼女は、何度めかの転職を決断した。


しかしこれも、やはり
「けっこう大変」だったのである。
何より「大変」だったのは、
お店が炉端焼きの「居酒屋」だったということだ。
飲食店に勤めた経験はあったのだが、
「夜」というのはなかったのだ。
銀座の割烹も、昼間のみで、夜の勤務に就いたことはなかった。
この話をするとき、彼女はとてもデリケートに、
ちょっと話しにくそうに、苦笑いした。
つまり、お酒に酔った男の人がいるのよね、それで、
隣に座れ、とか、さわってきたりとか、いろいろあって、
私はそういうのに免疫がなかったのね、
ずいぶん悩んだ、ずいぶん悩みましたよ、
勤め始めて、8ヶ月で13キロ痩せました、ストレスで、
精神的にほんとに辛かった。
男の人ってなんでこんなにいやらしいんだろう、
男の人なんか最低、ってね、思った、
と、彼女は笑った。
その笑い方が照れくさそうで、
まだ今も田舎から出てきたばかりの少女のような感じがほのかにあって、
こんなこと私が書くの、本当に失礼なんだけれど
ああ、これは、ちょっかい出されちゃうなあ、
私は男の人じゃないけど、なんとなく、わかるなあ、と思うような
未だに全くスレないかわいらしい印象が、
つねにR子さんの中にあるのだった。
どんなにいろいろなことがふりかかっても、
どうしても汚れることも、傷つくことも、馴染んでしまうこともない、
つるんと丸い瑪瑙の石がつやつやしているみたいな、
さわやかな透明感が笑っているのだった。


辞めたいって何度もマスターに言ったけど、
なんとか慣れていったんです。
でも、ストレスでやっぱり、結石になったり、
とにかく病気はしました、とR子さんは言った。
病気だけでなく、怪我もやった。
知り合い同士で行ったスキーで、転んで、
足がめちゃくちゃ痛むのをがまんして東京まで戻り、
1晩耐え抜いて病院に行ったら、
複雑骨折していて、医者にびっくりされた。
フツウなら救急車ですよね、と私が聞くと、
R子さんは、
救急車ははずかしいのよね、
どうしても恥ずかしいっていうのが先に来ちゃうのよね、
と笑った。
私ならどうだろう、と思った。
私は痛いのが一番イヤで怖いのだ。
たぶん、痛いとか怖いとかなったら、
恥ずかしい、なんてふっとんでしまうだろう。
この人の心は、どうなっているんだろう、と
不思議で仕方がなかった。
結局このときは2ヶ月入院し、半年リハビリをし、
ようやく復帰できた。


40歳の頃、ある日、違和感を感じた。
「何かおかしい、ちがう」と直観的に思い、
かかりつけの病院に行ったら、すぐ大学病院を紹介された。
乳ガンだった。
なぜか、このときの検査で
「三ヶ月くらい様子を見ましょう」
と言われ、言われたとおりに3ヶ月後にもう一度検査を受けると
やはり大きくなっていて、すぐにベッド待ちとなった。
待ち状態で、年を越した。
この暮れから年明けは、ものすごい気持ちでしたよ、
とR子さんは言った。
何度か「もう、ものすごい気持ちでした」と繰り返されたこの、
「ものすごい」というのがどんな感じか、
私にもおぼろげに想像できた。
何とも言えない、恐ろしい、絶対に気が晴れたりしないような気分が
部屋中を満たしている気がしただろう。
それからどうやっても、逃れられなかっただろう。
年明け7日、ベッドがあいて、入院、となった。
宮崎のお姉さんには話をしたが、来てもらうことはしなかった。
検査をたくさん受けて、1月末に手術、となった。


乳房を残すこともできるけれど、再発の不安は残ります。
どちらをとるか、判断して下さい、と言われた。
R子さんは、切除を選んだ。
リンパから何から、すべて切り取った。
右側をすべて「えぐりとる」という感じだった。
でも。そのことは、ハッキリ判断できた。
判断する上で、あまり迷うことはなかった。


切除後、しばらくは、
ひじをこう、曲げて、ガードしていました。
隠すというのじゃなくて、
なにしろ、人とちょっとぶつかっただけでもこう、
ひびくんですね、痛いというか。
なにもまもるものがないので、怖かったんです、
とR子さんは言った。
確かに、上に肉がないわけで、
直接骨や内臓が表面にでているわけで、
鞄や腕が少し当たっただけで、衝撃が走るのだろう。
あと、服が困るんですね。
フツウの服が着られないの、どうもバランスが悪いのね、
ガーゼや何かをつめても、どうもダメ、
かゆくなるし、フツウの白いブラウスとかは着られないの、
淡い色のものはダメ。
いろいろつめたりしていたけど、5年くらい経ったら、
もういいや、となってきました。


乳ガンの手術から退院して3ヶ月ほど経ったある日、不正出血。
定期検診のときにそれを伝えて、検査を受けると、
今度は、子宮癌だった。
このときは、悲しくてどうしようもなかった。
1回目のときは初めてだったから、何がなんだかわからなかったけど、
二回目はもういろいろ知っているから、もう最後だと思ったの。
病院からお店に電話して、マスターもショックだったみたい。
あとで聞いたら、
もうお店に帰ってこないだろうと思った、
と言っていたそうだ。


このときは、最初と違い、お姉さんたちが交代で来てくれた。
R子さんは8人姉妹で、一人だけ弟さんがいる。
R子さんは上から6人目だ。
1回目の時は遠くにいて、何も解らずに心配しているばかりだったけど、
あんな思いをするくらいなら、出てきた方がいい、と
お姉さんたちに言われたそうだ。
遠くにいて心配している気持ちは、私にもよくわかった。
それはひどく辛いのだ。
どんなに厳しい状態でも、
近くにいて見つめていられることの幸せというのが、ある。


今度も、不安を残すか臓器を残すか決めるよう、
「判断して下さい」と言われた。
R子さんの判断は、子宮・卵巣、全摘出、だった。


このあと10年間、核医学室というところで
定期的に検査を続けた。
鼻先すれすれのところをすーっと全身、機械がなめていく。
手術後2年目に、肝臓に腫瘍がみつかったりしたが、
現在ではその検査も完了し、再発はない。
そんな、身体的な激しい波乱を乗り越え続けてきた人とは
とても思えないような気がしたし、
でもなにか、鍛え上げられた刀剣のような静かな強靱さが
感じられるような気もした。



ガンの手術後、退院一ヶ月くらいでお店に戻ったんです。
マスターが、掃除だけでもいいから来なよ、と言ったの。
一人でいても、かえって参っちゃうから、って。
片手しか使えない状態だったが、少しずつお店に出て、
お客さんと話もするようになった。
お客さんと話すと気が紛れるんです、
でも、家に帰ると元に戻っちゃうんですけどね。
夜になると戻っちゃう、夜は、いやだった。
R子さんは、噛みしめるみたいに何度か繰り返した。
夜はいやだった、と言った。
病気の後、身体の一部を失って、
また何が起こるかも解らなくて、
ひとりぼっちで過ごしている夜のことを、
思い出して噛みしめるようだった。


道を歩いていて、みんなを見ていると、
みんなあんなに楽しそうにしているのに、
何で私だけこんな辛いのだろう、と
ひがみみたいな気持ちになることがありました。
お店に出ると、病気のことを知っている人は
「大丈夫?」と声をかけてくれます。
ムリするなよ、とか、気をつけてね、とか。
でも、私の病気のことを知らないお客さんは
「いつも元気だね」って言うの、明るくしてるからね。
それで、「あっ!」と気がついた、
人から見ればそう見えるんだ、ってね。
私はこんなに辛いのに、「元気そうでいいね!」と言われる、
そうか、って。
「みんな幸せそうで、何で私だけこんな目にあうのかな」
と思っていたけど、
「明るい人ほど、ほんとうは、
 いろんなことがあったんじゃないか」
と思うようになったの。
たくさんの人と、道で、こう、すれちがうときも、
それをぼんやり見つめていて、思うんです、
たとえば、この人はけっこう年配だけど、
いろんなことがきっと、あったんだろうな、と。


今でも、古いお客さんは「大丈夫?」と心配してくれる。
そう聞かれると、R子さんは、
「大丈夫です、だめなときは言います」
と答えるようにしています、と笑う。
お姉さんたちもみんな、言うのだそうだ。
「一番Rちゃんが心配ない」。
お姉さんたちはおおむね、健康で丈夫だけれど、
人間関係や家族の様々なことで、心配事が多かった。
Rちゃんはその点、きちんと生活して、しっかりしてるから、
一人でも一番心配ない、と言われるのだそうだ。
私はね、迷惑かけたくないんです、
死んだ時迷惑かけちゃうのは、それは仕方がないけど
それ以外はできるだけ、迷惑かけたくないんです。
精神的に落ち込んでいたら、みんな心配しなくちゃいけないでしょう。
だから、病気の時も、
落ち込んだところを人にぶつけたりはしなかったのだろう。
でも、私はほんとうは、すごくもろいんです。
ハタから見ると強そうに見えるけれど、
人一倍気にする性格で、悩むだけ悩むの、
不眠症みたいになってね、寝付けないのね。
東京に来てからもうずっとそう、睡眠時間は4、5時間。


この強烈な強さの印象と、脆く繊細な印象は、
確かに彼女の話のなかに一貫して流れていて、
それが、決して混じらない。
弱さが強さをたわめないし、
強さが弱さを打ち負かすこともない。
分離していて、溶け合わないけれど、
でも両者が、ある種「仲良く」やっているのかな、と
そんな感じもした。
どうしてそんなことができるのか、
圧倒されるような気持ちになった。
彼女の話はとても明るいのだけど、
ずっと、なんだか、涙腺が突き上げを食らってる感じだった。


今のお店はとても良いお店だと思う、と彼女は言った。
スタイルを変えないんです。だからみんな安心するみたい。
厨房は客席から手元まで丸見えで、何も隠れるところがない。
そうなのだ。
メニューも10年前からほとんど変わらない。
27年間、中心となるスタッフは変わらず、
マスターと、Iさんと、R子さん3人でやってきて、
仲間というか、家族みたいなものなのだった。
閉店後、3人でジャンケンをして
負けたらビール1本おごる、とか、とても仲が良かったのだ。
今、Iさんが急病で倒れてしまい、
マスターもR子さんも、とてもショックを受けている。
休みもなくなり、不安定な状態になっている。
でも。




R子さんは、このインタビューの最後、
とても自然に、こういった。


私は、今がいちばん充実していて、
ほんとうにイイ人生だったと思うんです。
本当にイイ人生だと思う。


ほんとうに自然に言ったのだ。
わざとらしさも、作った感じも、なにもなかった。
童謡の旋律のように自然で、論理的だった。



私は、それを聞いて、
さあっとからだに鳥肌が立って、本当に涙が出そうで
何も言えなかった。
誰だってそうなるに違いないと思う。
悲しかったんじゃなくて、
うれしい、というのも少し違っていて、
その感覚は、感動、というより
むしろ、圧倒された、というのに近い。
彼女は、身体の一部を徹底的に失わされていて、
今一人で暮らしていて、
現在も、不安定な体調と折り合いをつけながら
日々、いろんなことが起こる客商売の現場の中で
体も心も頭もフルに使いながら、
文句なく「タフに」生きている。


たったこれだけの会話で、彼女のことがわかる、なんて
おこがましいことはとても、言えないのだけれど
でも、その彼女の「生活」の像が
地中深く根を下ろして今も季節の中で生き生きと変化する、
青々とした桜の大木のように感じられて
それで、満開の桜に圧倒されるように圧倒されたのだった。