石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

自覚


ドワンゴさんの「恋愛一番星」の連載(恋愛週報)は
3月末で終了した。
その際、ドワンゴさんのご厚意で、
「プレゼント企画」をやっていただいた。
ご応募の中から抽選で数名様に、
拙著「12星座」にサインをしたものと
その方のホロスコープを読んだ感想を書いたちいさなカードをつけてプレゼント!
という企画だった。




蓋を開けてみたら、担当者の方がびっくりするほどご応募をたくさん頂いた。
そして、担当者の方がもっと驚いていらしたのは
そのご応募の「コメント欄」だった。
応募フォームには「一言どうぞ」的なコメント欄があって
そこへの記入率がものすごく高い、と驚かれてたのだ。
85%の記入率です、と言われた。
ふつうはこんなことないのだそうだ。


そのコメント、というかメッセージを
一昨日、
エクセルに一覧にして送って頂いた。



何百件もあるメッセージをずーーーっと読んでいって
単純に「うれしいな」という以上のなにか
よくわからない気持ちがわいてきた。


それは


私は、自分が何をしてるのか全然わかってなかったのだ


という思いだった。


うまく言えないんだけど
まだ消化出来ていないんだけど
とにかく
このiMacで毎週私が書いていたことが
担当者さんの手に渡り、そこから携帯端末を通して送られていき
これだけの皆さんが読んでいて
そのかなたでこんなことが起こってたのだ
それも
こんなにたくさん!
というのが実感としてどすんときた。


このことは
福袋企画とか、
今回「一時休止します」といっていただいた膨大な量のメッセージからも
(本当に「膨大」だった。心底びっくりした。)
じわじわじわじわと感じ続けていて
それが臨界点に達してあふれかえった
という感じだった。


「筋トレ」は、毎週数万ヒットある。
そこで何が起こっているのか、私はよくわかってなかった。
今もまだよくわかっていないけど
そのわからなさ具合がなんだか少しずつ変わってきている。


4月に入って、ちょっと某所に旅行してきたのだが
ユーカリネタを出したらオーストラリアだと思った方がいらしたが
 はずれ
 です。残念。(爆))
そこは2回目だったのだが
そこでも、
わかってなかったことがわかった体験
があった。
頭では知っていたけど、その意味がわかってなかったのだ。



〆切のラッシュから抜けて、
いま、少し呆然としているような感じで、
今まで血行が滞ってしびれきって感覚がなくなっていた場所に
じわじわ血が回り始めているような気持ちになっている。



先週末に週報を更新したのだが
そのとき、
正直、
すこしだけ、楽しかった。


楽しかったんだ。
びっくりした。
楽しくなくなっていた自分にもびっくりしたし
以前は楽しかったのだということを思いだしてびっくりしたし
なにより
楽しんでいる自分にびっくりした。



自分に何が起こっているか、なんて
自分ではほとんどわからないんだ、としみじみ思った。
少しずつ少しずつ変わっていくことは
自分ではほとんど認識できない。


よく行く場所の近くに、
誰が見てもドッキリするような若作りのおばあさんがいる。
駅やその界隈で、しばしば見かける。
私はあまり人の顔を覚えたりしないのだが
あまりにもすごい厚塗りとファッションなので、びっくりして一発で覚えた。
彼女はいつも若い若い男の子と一緒に歩いている。
男の子の顔はどうも、いつもちがっている(ような気がする)。
もちろん、
どんな格好だって、自分が好きな格好をすればいいのだ。
そのおばあさんを見ると、私は
たぶん、自分でも似合わないかもしれないというのは解っていながら
敢えて好きな服を着て楽しんでいるのだろう、と思っている。
そういうパンク精神なのだろう、と思っている。
似合おうが似合うまいが、好きな服を着てなにがわるい、
という明るい自己表現なのだろうと思っている。
そもそも「似合う」ということ自体、
どういうことかよくわからないのだ。
単に慣習や常識や、文化とかコマーシャリズムとか
まあそういった意味不明の漠然とした「衆目」が作りだしている
匂いみたいなものじゃないのか。
似合うか似合わないかなんか
どうやったって定義出来ない。
ファッション評論家
とかが勝手に作ってるだけだといえばそうも言える。
確かに似合うとか似合わないとかは、感覚的には「ある」とおもうけど
それを説明したり論理的に定義にしたりすることは多分できまい。
だとすれば
似合う格好をするのがエライ
というのは
土台、よくわからない話になってくるわけだ。



だけどもしかしたら、
その人も多分
自分が毎日少しずつ年を取ったことに気づかないまま
自分に何が起こっているのか気づかないまま
ここまで来てしまった、ということなのかもしれない、という
その可能性を思った。
それは、ありえないことではない。



命は自分の命を保とうとする、ようだ。
だから痛覚がある。
痛覚を感じない病気があるそうだが
それは非常に危険なのだ。
自分の現状を保とうとするしくみが、痛みを知らせる。
変化が起こったよ、と知らせてくる。
保たれないことの危険を知らせてくる。
でも、一方で、命は変化する。
成長痛を伴って変わっていく。
変わるのは痛い、それは保とうとするからだ。
でも、変化を終えて次の段階に進むと
やっぱり、その状態が保たれようとする。
アイデンティティは壁の外に出て行かないようにせき止める。
でも、どこかでそれは変化する。
変化の時はいたいけれど
変化して次の真新しい壁ができあがると
またそこに、保持の力が働いて、丈夫になる。



変化する時は痛い。
恋という時は変という字ととてもよく似ていてしばしば書き間違えるのだが
恋もやっぱり、切なくて痛いのは同じで
それは、恋ということそれ自体が
その人が変化しようとしている、その行為である、
ということだからだろうと思うのだ。



そして変化しながらも
駘蕩として変わらないなにかがその向こうにある気がする、んだけど。




今、ちょっとぼーっとしながら
そこに盛んにデフラグかけてる感じ、なんだなとおもったりしたりした。まる。