石井ゆかり@筋トレのブログです。
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7th-Rさん


11月、インタビューの7回目を敢行した。
お願いしたのは、Rさんという女性だ。
彼女に会うのは、もう何度目になるか解らない。
最初にお目にかかったのは西荻窪の「西荻インタビュールーム」だった。
私がブッキングを間違えて、なんと、
他の方と同じ日時においで頂いてしまったのだ。
Rさんは別に怒りもせず、さわやかに
「じゃあ後で来ます」
と言ってくださった。


Rさんには2人のお子さんがいる。
お一人は、数年前に亡くなった。
20歳そこそこで亡くなったのだ。
Rさんとお話ししていると、いつかそのお子さんの話に行き着く。
川の流れが海へ出るように、自然にそこにたどり着く。
私は、いくつかの
私自身の個人的な理由で
彼女がその失ったお子さんの話をするのを聞いているのが好きだ。
多分、この感じは、Rさんには解らないだろうと思う。


とても大事な物を失ったとき、
だれでも、とても悲しい。
痛くて辛くてたまらない。
そこだけぽっかり穴が空いてしまったようで、
他のことでは、そこは、埋まらない。
その強烈な痛みをだれもが想像して、
周囲にいる人はできるだけ、その穴に触れないようにする。
でも、私は思うのだが
きっと、誰かを失った人は
その人の話をしたいものなのではないだろうか。
もちろん、触れられたくない人もいると思う。
でも、もし誰にも語られないまま時だけが過ぎていったら
その人がたしかにこの世にいたということも
その人を失って痛んでいるこの胸の中の穴のようなものも
誰の目にも触れないまま忘れられていって
あとかたもなく消えてしまうだろう。
そのことはおそらく
誰かを失った人には、うれしいことではないにちがいない。
むしろ
その人がいた時のことを話して
その人の手触りを確かめて、それを誰かと共有していくとき
いなくなった人との関係は実体としてそこにあり
確かにその人が自分の中で血肉となって息をしていると
実感できるんじゃないだろうか。
そのときこそ
そこにその人がたしかにいたのだと
そしてその人がいたことは大きな意味があったのだと
感じられるんじゃないだろうか。


人間は、他の人間にその存在や思いを受け取ってもらうことで実感を得る。
なぜなら、誰もが一生涯、一度も、
自分が他人を見るようには、自分を見ることができないからだ。
写真を撮っても、鏡を見ても
それは肉眼で見たナマの映像ではない。
間接的で、二次的な像だ。
誰かと話すように自分と話したり
誰かを見つめるように自分を見つめたりは、絶対にできない。
だから、他者と接して
その反射で、その受容で、その反応で自分を確かめている。
大切な誰かが失われるということはそういう意味で、つまり
自分自身を感じる手だてを失うということで
要は
自分自身を失うということなんじゃないだろうか。
Rさんに出会ってから、何度かお話を伺ううちに
私は、そんなふうに考えるようになった。


考えるようになった、というのはつまり
「教えて頂いた」というのが正しい。
教える、というのは、やり方を語ったり答えを話したりすることだけ、ではない。
「ありかた」を見せて、相手に自分なりの考えを展開させていく、というのも
「教える」ということなのだろう。
「親父の背中を見て育つ」なんていう言い方があるが
あれがまさにそうだ。
子供は自分なりにそれを見て、考える。
刺激され、促され、悩み迷って、「これかな」と
自分なりの答えを出す。
あるいは、プロセスを得る。
Rさんにはそんなふうにして、たくさんのことを教えて頂いた気がするのだ。




11月のある午後、Rさんの最寄り駅で待ち合わせて、
近くの喫茶店に入った。
久しぶりにRさんに会えて、私は嬉しかった。
世代も違うし、Rさんは関西の方で関東出身の私とはバックグラウンドも全然違うし
多分お互いにテンポのズレを感じたりすることもあるとおもうし
きっと違和感もあるんだと思う。
私とRさんはとても違っているという気がする。
でも、
私はRさんが何となく好きなのだ。
なぜだかはわからない。


Rさんは最近、フェレットを飼いはじめた。
知人から「フェレットを飼いませんか」という問い合わせが来て、
それで、飼うことにした。
そのフェレットは傷があるので売り物にならない、ということで
引き取り手をさがしていたのだ。
傷というのは、「片目が悪い」という話だったが、
そうかどうかよくわからないという。
当初、フェレットを飼う気などまったくなかったのだが、
引き取り手が見つからなければ処分することになるかも、という話を聞いて
Rさんはそれに耐えられなくて、飼うことに決めた。
配色が手袋を履いているみたいなので、家族会議の結果、
「カンパネルラ・ミトン・T」と命名された。
TはRさんの名字である。
で、ミトンちゃん、から「ミーちゃん」と呼ばれている。


フェレットは、イタチの一種で、細長くてしなやかな動物だ。
ケージに入れて、室内で飼う。
ケージから出したりもする。
好奇心が旺盛で、何も怖がらないのだそうだ。
名前を呼んでも来ないけれど、
見慣れない変わったものがあるとまず、突進していく。
訪問者の鞄とか、買い物袋とか
なんにでもとびついていく。
身体にも登ってくるけど、おとなしく抱かれたりはしない。
Rさん曰く「おバカ」なのだ。
警戒心がない。
でも、よそのフェレットはかしこいらしいのよ、とRさんは言う。
すくなくとも、呼べば来るらしい。
でも、Rさんのところのミーちゃんはこない。
フェレットは帰巣本能が弱いらしく、
旅先で放したりするとまず、見つからないのだそうだ。
だからやむを得ず連れて行く時は、
お腹に油性マジックで電話番号を書いておく
のがノウハウ、らしい。


そんな動物ってかわいいのかなあ
となんだか不思議だったが
「でもかわいいんです」
とRさんは言うのだ。
バカみたいと思いながら、いっぱい話しかけちゃうの。
目を覚ますと、「あら、起きたの、いいこねー」とか、
「お腹空いたの?ご飯食べるの?」とか
ずっと話しかけてしまうのだという。


そうしていて、思い出したんだけど、
子供が赤ん坊の時も、こうやって
浴びせかけるようにしゃべったなって。


赤ん坊は、話しかけてもなかなか反応しないのだそうだ。
その点はフェレットと大してかわらないらしい。
反応しないけど、浴びせかけるように毎日毎日、
いろんなことを繰り返し、話しかけているウチに、
にこっと笑ったり、反応したりするようになる。


それはそれは、毎日
想像を絶する量をシャワーのように、まさに「浴びせかけて」いたのだ
と、Rさんは気づいた。
反応のないその赤ん坊にむかって、柔らかく、たゆみなく、
親しみを込めた言葉を、つねに。
そうやって、赤ん坊はしゃべるようになっていくのだった。


Rさんはフェレットがしゃべれるようになると思ってるわけではないけど
やっぱり、話しかけている。
多分、母親であったRさんも、
赤ん坊が「一日も早く話してくれないか」と合目的的に話しかけていたのでは、
たぶん、ないのかもしれなかった。
何かを教えようとか、早く何かさせようとか、
そんな思いで話しかけたのではなかったのだろうと思ったのだ。
ではどうして、反応のない相手に
ずっと話しかけたりできるのだろう?
何でそうしたいと思うのだろう?


あかんぼうも、フェレット
なにもしてくれない。
何の役にも立たないし
ただ人に世話を焼かせて、言ってみれば、迷惑をかけてばかりだ。
でも、ちょっと笑ったり、
ただ目を覚ました、それだけでも
いいこね、いいこね、って言われる。


いつだったか、小学生向けの通信教育のCMで
「みんないいこだよ」
というコピーがあった。
私は何故かそれを見ると
胸がいっぱいになって、じわっと涙が出てくるのだった。
理由はわからないんだけど
たしかに、こどもは、
みんな、いいこなのだ。



フェレットは、見慣れないものや珍しいものを怖がらないけれど
そういえば、自分も、あまりものごとを怖がらないかもしれない
とRさんは言った。
子供を産むことも、新しい環境に移ることも、
いろんなことが、あまり怖くないんです。
子供の頃からそうだった。
女の子をいじめちゃったりするガキ大将みたいな子がいて、
その子にすごまれたときも、平気だった。
平気すぎて、逆に相手に恐れられるようなこともあった。
そうですね、とRさんは、
思い出して確かめるみたいに何度か、言った。
私はあまり怖くないんですね。


怖くないってどんな感じなんだろう、
と私は思った。
私はとても臆病なのだ。
なんでも、とても怖い。
友達とちょっとでかける、ということすら怖い。
相手が怒り出したり不機嫌になったりしたらどうしよう
なんておもってしまい、
結局、一人でいる方が気が楽なので
そっちを選んでしまったりするので
結局、友達はほとんどいない。
なんでも怖いから、自分を守る方に守る方に動く。
Rさんはフェレットと猫を比較して、言った。
フェレットは好奇心ばっかりで、
世の中はみんな味方だと思ってるんでしょうね。
ネコはその点、世界中を敵だと思ってるかもしれない。
私は、自分をかねて、どうもネコっぽいと感じていたので
なんとなく、納得してしまった。
もちろん、勇敢なネコや図々しいネコもいるだろうけど
基本的に、ネコは物事を警戒する生き物だと思う。
びくびくっとするし、様子をうかがうし、
なかなか慣れてくれない。
それは要するに、恐れているのだ。
怖くなければ、すぐに近寄ってくるだろう。


私は、Rさんに、
怖いことってありますか、と聞いた。
そしたら、Rさんは、注意深く、ゆっくり言った。


人がいなくなっちゃうのは、怖いですね。


それは、近くに住んでいていつでも会えた人が
遠くに引っ越してしまう、とかそういうのでも怖いですか
とかさねて聞いた。
そしたら、Rさんは再度、注意深く考えて
それは、そんなにこわくない、そう、こわくないです
と答えた。


本当に怖いことは、世の中には、
そんなにたくさんはない、のかもしれない。
私は、こわがらなくてもいいものを怖がりながら
本当に怖いことのことはまだ
よくわかっていないのかもしれない。
お子さんが亡くなってから
Rさんの生活は全く変わってしまった。
その前

その後
では
Rさんにとって、徹底的に違った時間が流れている。


私があの人を大事に思っていて、
いなくなったことをこんなにも残念に思っているということを
解っていてほしいと思う

Rさんは言った。
解っていてほしかった、
解ってほしいというより、
解ってくれたらうれしいな、ワカンナイだろうとはおもうけど
という感じかしら。
Rさんはその気持ちを正確に表現しようとして
何度も、少しずつ言い換えて、繰り返した。
こんなに、その人がいなくなったことを痛手に思っているということが
伝わっていなかった、と思うと、
ひたすら、残念だ、という気がするんです。


そして、お子さんが小さかった時の話を
楽しそうに、してくれた。
私はRさんのお子さんが小さかった時の話を聞くのが好きだ。
ただいまー、って声がして
玄関を見るとランドセルがころんと転がっていて
そこにはもう、いないのだった。
暗くなるまでどろんこになって遊んで
いろんな不思議なモノを集めてきては
見せてくれたりするのだった。


生まれてきて、めいっぱいに楽しんで生きて、
そして、とてもとても若くして亡くなった。
その人生のありかたをトレースして
それを心の中でじっと見つめ続けているRさんの思いを想像して
返事をするわけでもないかわいいフェレット
たくさんたくさん話しかけるその
とても自然なあり方を想像して
それで私はどういうわけか
ある種の安堵のようなものを感じるのだ。


その感触は、
「みんないいこだよ」
っていうのを聞いた時の、あの胸がいっぱいになる感じと
とても近いところにある。



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この「interview」シリーズについては、こちら。
http://d.hatena.ne.jp/iyukari/20071113