石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

前置き・その1

私はここ7年ほど、「星占い」をやっている。


いわゆる「西洋占星術」の知識を使って、
幾多の人の運命や未来の運勢を読み取ろうとしてきたわけである。
インターネット上で、無料で個人鑑定のようなことをします、と告知し、
以来、様々なテーマについて膨大な件数、占った。
その人の性格や、直面している問題の原因や、
未来に起こりそうなこと、その時期などを、
占いという道具を使って、読もうとし、伝えてきた。


これは初めは、とても楽しかった。
私にとって、星占いのシステムは既に「できあがっている」もので、
それを使えばいいだけだった。
その人のホロスコープを読み、何冊かの本を片手にプロフィールをまとめ、
偉そうにアドバイスしていくのは、快かった。
私は、時間が許す限りメールや記事を書いた。
私はとにかく文章を書くのが好きで、
いくら書いても全く苦にならなかった。


星占いは面白い。
星占いという「象徴の体系」は、一つの世界観だ。
世界を解釈するための方位磁石のような、辞書のような、
そんなしくみを持っている。
その体系には深みがあり、象徴はそれぞれが深遠な世界を内包していて
ほとんどどんなことでも解釈できるような、堅牢な構造がある。
私はこれに魅了されたのだろう。
何の根拠もない「占い」を、これだけ毎日毎週続ける自分が
不思議でもあり、気色悪く感じたこともあった。


さらにそうするうちに、
気色悪さや不思議さにとどまらない、
ある違和感と疑いが、私の中に芽生えはじめた。


自分で自分のやっていることを考えると
要するに、私は星占いという眼鏡をかけて人やものをみているのだ。
自分の、人間としての目では、人を見ていないのだ。
無意識に、この世界を星占いという鋳型にはめようとしているのだ。
生身の人間を、乾いたあの2次元の世界に押し込めようとしているのだ。
そうじゃないか?
と自問して、奈落に落ちるような恐怖を感じた。
その人がせっかく目の前にいるのに、
その人を自分の目や心ではなく、ホロスコープで捉えようとしている。
私は「その人」ではなく、ホロスコープを見てしまっている。
そう思った後、
悲しみのような、焦りのような、妙な気持ちが私の中に常駐するようになった。



私には何の権威もないし、知識も技術も知恵もない。
人間的な厚みもゆたかな社会経験もない。
でも、出会ったその人と同じ「人間」だ。
「人間」と「人間」が出会うというただそれだけのことだけが、
すなわち、世の中を作り出す根本的な現象ではないか。
これを生身でやらないで、どうして「会う」意味があるだろう。


私は昨年、西荻窪で1年間、たくさんの方にお目にかかってお話を伺い続けた。
「会う」と、その場ではいろんなことが起こる。
泣いたり笑ったり、思いがけない話をしたり聞いたりできる。
だが、今年の年明けからこの10ヶ月ほど、
私は個人占いをほぼ、ストップしていた。
その間、
もしあのとき、私の手元に、ホロスコープがなかったら?
と、何度も自問した。


まず、その方に出会えていないだろう、とは、おもう。
星占いをします、といったから、皆さん、お話をしに来てくださったのだ。
単なる剥き身の「私」が「インタビューさせてください」といったって
来て頂くこともお金を頂くことも不可能だ。
あの部屋は個人占いで頂いたお金で借りていたのだから、そもそも企画倒れだ。
でも、もし、ホロスコープ無しでもお目にかかれていたなら、どうだっただろう。


それは、わからない。
でも、一つだけ言えるのは
私が、もっと私としておはなしできただろう、というこのことだ。
もっと私は私の目で見たり考えたり悩んだりしただろう、ということだ。
ホロスコープと取っ組み合っている時間をそのまんま
その人
にむけることができただろう。
その人のお話や表情や、感情の動きや、過去の物語に、
意識を全てむけることができただろう。
ホロスコープの持っている情報と、私のアタマや心にわくなにごとかと
どっちがえらいか
といったら
私には解らない。
おそらく多くの方が、ホロスコープの方がイイ、そっちを教えて欲しい、と言うだろう。
でも私は、それでいいのかというと、どうも、そうじゃない気がするのだ。
私はホロスコープよりも、その方のほうを見たい。
ホロスコープがその邪魔になるようなら(それは私が悪いんだと思うが)、
ないほうが、わたしは、いいのだ。


とにかく、見知らぬ方にお会いして、お話を伺って、
それで、なにか書いてみよう、と思った。
この日記上でそれを、それこそ「日記」として、公開できる、と思った。
そう思い詰めて、とうとう、この日記に、
「インタビューをさせてください、占い抜きで」
と告知を打った。


そしたら、1日で70名様を越える応募を頂いた。
びっくりした。
占いはしない、のに。



とてもじゃないけど70名様すべてにお目にかかるのは
すぐには不可能だと思ったので
中から早めに応募を下さった数名の方にお願いした。


そして、10月の2週目、初めての「インタビュー」を敢行した。
その方は、とても大事なお話をして下さって、
私はできる限り一生懸命聞き、メモを取り、
帰ってからその週末を使って、長い原稿を書き上げた。
そして、その方に公開の可否を確認すべく、メールで原稿をお送りした。


結果は、NGだった。
詳しい理由はわからなかったけれど、なんとなく、自分で思い当たるところがあった。
正直「やっぱりか」という気がした。
それは、「書く」ということの根本にある問題を、そのまま映し出していた。


書くこと、特に、こういう散文を書くことは、非常に傲慢な営為だ。
文章の中では、作家の考えが「結論」になる。
作家のことばが、その稿の中では、全世界を解釈し尽くしてしまう。
だから、インタビューをされた側にしてみれば、違和感があるのは当然なのだ。
私が書いたことはあらゆる意味で、私の主観でしかない。
たとえわたしがどんなに客観的であろうとしたとしても、
私が書く以上、どこまでも私の主観なのだ。
だから、書かれた人の主観と一致することはない。
そこで、とまどいや違和感が生じるのは、当然のことだ。


もしそうだとするなら
こうやってインタビューを繰り返して、文章を書いていったとしても
最悪、全てお蔵入りになるかもしれない。
そう思い当たって、心を暗雲がよぎった。


それでも、全てお蔵入りだったとしても、このおもいつきを、やめるわけにはいかなかった。
お願いした方々にお会いし、
お話を聞き、書いてみる、というそれを経由しなければ
これ以上先に進めないような気がしたのだ。


>>>( 前置き・その2 に続く。(なげーよ) )