石井ゆかり@筋トレのブログです。
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good-morning


なんてことない、朝。




非日常がきたらどうしよう、と怖くなるとき、
かつて自分に非日常的なことが起こったときのことを思い出す。
非日常、っていうのは神秘体験とかじゃなくて
日々の生活の感覚から逸脱するような事件とか喪失が起こったときのことを言う。
「あたりまえ」だったものが突然失われるような場合のこと。
大事な人が死ぬとか、突然失職するとか、事故や病気にあったり、
住むところがなくなるとか、夜中に避難とか、
誰でも多かれすくなかれ、そういう体験があると思う。
ああいうとき、私は
頭と身体が一体になったような、動物になったような
へんな冷静な落ち着いた感じになった。
たぶん、感情がストップして、思考だけになってしまうんだろうと思う。
呆然としてる一方で、生き物の意識だけが動いてる状態なのかも。
だから眠れなくなったりはあまりしなかった(繊細じゃないんだな
あの感覚を思い出すと
ちょっと安心する。


誰かに起こった不幸について、
触れがたい、と感じるのは、差別だ、
とあるお坊さんが話していた。
不幸な人を見たとき、そこから目をそらして離れたくなるのは
あわれみではなくて、差別なのだと。
人は自分には理解できないと思ったその相手を恐れるのだ。
で、排除する。
「怖い」という気持ちと差別する気持ちとは、表裏一体なのだ。
自分では「そっとしておいている謙譲な思いやり」のつもりが
連続性の断絶になっている。


自分が何もかも失って苦しいとき、
その苦しみを無視されるのと
その苦しみを理解できない人がそばにいて
それでも理解したいとやきもきしながら見当違いのことを言い続けるのとでは
一体どっちがイイだろう。
わからない。


私も、だれでも、
数秒後には半身不随になったり死んだりするかもしれない。
一瞬で大事なものを失うかもしれない。
明日をも知れないのは、みんないっしょなのだ。
どんなに自分を守っても、内側から破壊されることもある。


だったらきっと
不幸な人が「不幸な人」ではなく
たんなる自分と変わらない一個人として見えるはずだとおもうんだ。