石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

トリガー


うーっすらとしか見えないけど
一応、虹の写真。




昨日、夕立が降って、そのあと大きなアーチを見つけた。
虹を見つけても、普通はだいたい、途中でとぎれていて
英語で言う”rain-bow”(雨の弓)とか
フランス語で言う”l'arc en ciel”(空のアーチ)とか
そういう「弧を描く形」を、ハッキリ意識したことはなかった。
これだけすうっと橋のようなかたちなのを見たのは、多分、初めてだ。
北から南、全ての部分がちゃんととぎれずにつながっていた。
しっかり地面から生えて、対岸の地面に着地していた。
あまりにもアーチが大きくて
端から端までをカメラに収めることができなかった。
夕方、太陽が低くなってからの虹は、アーチが大きい。
消えてしまうまで見ていないともったいないような気がした。



カットしたバームクーヘンはよく食べるけど
ホールサイズにはなかなかお目にかかれない


みたいな感じ(ケーキのホールサイズ=野望)



色があまりクッキリしていなかったので、きれいな写真にはならなかった。
こういう写真は、肉眼でみたものの「記憶トリガー」だ。
写真家が仕事として撮るのでない、
旅先や散歩道でふと撮るような写真はたいがい
そういうもんじゃないかとおもう。


去年、「星栞」を作るとき、山口さんという方の写真を膨大な枚数、見せて頂いたが
そのときはひたすら「やっぱり、プロは違う」とため息をつくばかりだった。
山口さんはしかし、いわゆる「カメラマン」という職業ではない。
彼は芸大を卒業後、他の仕事をしつつ、自分で絵を創作し、写真を撮りつづけている。
そういう意味での「プロは違う」だ。
そういう人の撮る写真は、見る人の感動や作品としての美、印象、なにか曰く言いがたいものの方に
撮る人の意識がまっすぐ向かっている「作品」だとかんじられる。
勿論、シロウトがふとシャッターを切って、感動的な写真が撮れることもある。
でも、ああいう、その分野での汚れのない真剣さを目の当たりに見てしまうと
やっぱり「プロは違う」って歎息してしまう。


そういう、
何かを外に向かって表現しようとする写真じゃなくて、
今の自分から、未来の自分に向かって語りかけるみたいな写真がある。
そのときの出来事を思い出すための「引き金」としての写真だ。
これはそういう写真。


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虹の橋のたもとに立ったことはある?


って以前、聞かれたことがある。
そんな体験はしたことがなかった。
その数ヶ月あとで
答えを教えてもらった。


そのときも、キツネの嫁入り
虹でも見えそうなお天気だったのだが
空をいくら見上げてみても
見つけることはできなかった。


でも、「答え」を聞いて
それから数週間が経った後、
そのとき、「虹が見えなかった理由」がわかった。



虹のたもとからは、実は
虹色は見えないのだ。
虹の中にはいると、視界全体が金色にキラキラ光り輝いて見えるのだ。
その人は、それを見たのだと言った。



それを話してもらったときのことを思い出すと
その、狐の嫁入りで空気中の水滴が日光に照らされて輝いている光景がまぶたのなかに広がって
久しぶりに会えたその人がそこにいる空気で、思い出全体がキラキラ光っていて
まるでシャンパンの中にいたみたいな気がした。


だからわかったのだ。
あれは虹を遠くから見る場所じゃなかったのだ、と。
あれは、私の虹の中だった。
だから虹色は見えなかったのだ。
あたりまえのことだった。



遠くにいるときは
時々、目に見えない橋を架け渡してメッセージを送る。
でも、手元にあるときはそれは
光の意味をことをわけて説明するような七色じゃなくて
全ての輝きを混ぜたゴールドで、ひたすらきらきらしてるのだ。



ヨーロッパでは
虹のたもとには金の壷がうまっている
という伝承があるらしい。
中国では、虹は龍に喩えられる。
ドラゴンが守っている金色の壺。
龍がいる場所はいつも特別な場所だから
星占いで「ドラゴンヘッド」が「縁」を意味するという解釈があるのも
なんだか符合していて、おもしろい。
そこではなにかが「出会って」いるのだ。
まちあわせたように、時間と空間を越えて、そこにある瞬間、出現する。
ひかりと水が出会ったところに横たわる七色の龍、宝物の金の壺。
昔の人はロマンティストだったのだなとおもうけど
こんな大きな不思議な虹を見てるとそれも
ムリもないなあ、という気がする。





あれからいつも、虹を見ると
虹のたもとに走っていって
ひたすら輝いているその光景をどうしても見たいような気がするんだ。


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・・・などと
少々お疲れ気味のせいか
ちょっぴりおセンチ(獏