石井ゆかり@筋トレのブログです。
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責任


マンガや小説のストーリーは
一度決めてしまったら、あとから変えられない。
どんなに作家が修正したいと思っても
一度出版してしまったら、ハナシを大きく変えることはできない。




映画なんかでは
ディレクターズカット
というのもある。
でもそれだって、根本的に変えるモノではなく
微調整・微修正・ちょっとしたネタバレ
程度にとどまる。


「作品を生み出してしまったら、そこの時点まで」という責任が生まれる



というような意味合いのことを
このあいだ、ある編集者さんが話された。



作品を作って世に出すのは
子供を産むみたいなもの、
とは
よくいったものだとおもう。
一度作品として読者や視聴者に差し出したら
それは作家の手を離れてしまう。
子供は親のものではない。子供は子供自身のもので、独り立ちしてしまう。
子供の生き方や人生をコントロールすることは、親にはできない。
せいぜい、生きていくとき最低限必要になる「道具」を少し持たせて、
他人とうまくやっていくには「やってはいけないこと」を少し教えるくらいが関の山だ。
あとは子供自身が自分の道を選び、自分で進んでいく。


作品が作品を育てることはないが
作品は、それを受け取る人々と「関わる」ことで、命を得る。
作者はその「関わり」には、ほとんどコミットできない。
だからこそ、「生み出す」までに精一杯コミットしておかなければならない。
作品が「世に出る」ところまでに
最大限の力を注ぐのが、作家の、作品に対する「責任」だ。
読み手は「できあがったモノ」としてそれをうけとる。
印刷された文字は、もう変化しない。



だが。
書き手は変化していく。
考えが変わったり、勉強して成長したりする。
それを書いた時点の作家と
それが本になって店頭に並んだ時点の作家は、違う存在だ。
だから、世に出たあとで、自分の作りだしたものの問題点やミスに気づくことがある。
そうすべきでなかった、ということが解る場合がある。
過去の自分の限界を
今の自分は越えている。
だから、誤りに気づく。修正したくなる。



でも、一度書いたモノは修正できない。
過去のある時点までの精一杯の自分、それがずっと残ってしまう。
ミスや失敗も「精一杯」のなかにある。
それが限界だったのだ。
で、それは自分で背負うしかないのだ。
それが責任。



一人の書き手が、
ひとつの文章をまとめてそれが出版されたあとで
自分の文章の誤りに気づいたとき
一体どうすればいいだろうか。
誤字脱字のレベルならさておき、
内容そのもの、思想そのもの、思考のプロセスそのものが、
「ちがっていた」
と感じられるとき、どうしたらいいんだろうか。


社会から強く求められている、有名な作家なら
そのことをもうひとつ別の本で出版できるチャンスがあるかもしれない。
でも、そのときそのときに出せるかどうか危うい作家だったら
どうすればいいだろうか。


ネットでは、「修正版」を書いてみんなに見えるところに置くことが可能だ。


だけど、そんなことをしたら
先の作品は、いったいどうなるだろう。
本は作家が書いてるだけでできあがるものではない。
出版社があって、編集者がいて、イラストレーターやデザイナーがいて、
そうやってみんなでつくるものだ。
関係者の総意によって成り立っているモノについて
たった一人、作家が
「これはちがってた」
といって修正版を公開することは
無責任というか、自分勝手だ。
関係者の総意への背信行為だし、
読み手に対しても、裏切りとなる。
いったん「こう」と書いたものの内容を覆したら
その「こう」は一体、どこに行けばいいのだろう。
それを読んだ読み手は、何を信じればいいのだろう。
「書き直し」はどんなにやりたくても
本来「やってはいけない」ことなのだ。



だけど私は
自分の過去に書いたテキストに根本的な誤りがあったと感じたとき
「書かないか、書くか」
の二択では
書くことを選んでしまう。
書いて表に出してしまう。
私が映画監督だったり、ストーリーテラーだったりしたら多分、不可能なのかもしれない。
でももしそれができる手段があって
どうしても修正しなければならない誤謬を自分の過去の作品の中に見つけたなら
私はなおすだろう。
そして外に出すだろう。
出せるものはみんな出してしまうだろう。


これが、私の今の時点での、現実だ。


それが正しい、と主張する気はまったくない。
はっきり言って間違っている。
自分で自分のやってることを非難しようとすればいくらでもできる。
「やってはいけないこと」
というのは、厳然とある。
社会的存在として背負わなければならない責任、
作品を生み出すとき、作品に対して背負わなければならない責任、
そういうものがあることはよくよく解る。



それを解った上で
「書くか、書かないか」「出すか、出さないか」
の2タクに直面したとき
私は、書く。


「今」のめいっぱいまで書く。
「今」もってるところの最大限ギリギリまでで書く。
これは本だろうがブログだろうが、いつも変わらない。
そこがずれたら
たぶん、おかしい。
明らかに間違っていると思えるのに、そのまま知らん顔でほうっておくことはできない。
せっかく「書かせてもらって」いるのに
そんなことはできない。
書かせてくれているのは、間接的には出版社さんだけど
直接的には、読み手の皆さんだ。
読み手がいるから、書けている。
機械ならリコール回収できる。修理もできる。モデルチェンジなどもある。
でも本はそういうことはできない。
いや、人気作家だったら、名作だったら、2刷・3刷で差し替えもきくこともあるのかもしれない。
でも、私はそうじゃない。
だったらどうするか。



少なくとも今の私は、そういうふうになっている。



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