石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

信頼


近所の公園にて。

      • -

トウトツだが

私は、野球にはあまりくわしくない。

たまに見ると
いろいろな場面があって
それに「合った」役割があるのがおもしろいなー、とおもう。
ピンチの時の「火消し役」とか
確実に点を取るための「送りバント」とか
足が速い人、一発ぶっとばせるバッター、素早く遠くから返球出来る外野手、等々
それぞれに「得意分野」があって
その得意な部分を担っている。


得意分野
がかなり特化されているということは
苦手分野
もまた、人によって相当ビビッドなんだろうなと思う。



徹底的にできないこと、無理なこと。
気が小さかったり、大雑把だったり、逆に細かすぎたり、
マイペースでどっしりしてたり、敏感に反応して素早く行動したり。
長所と短所はしばしば「おなじもの」だが
コーチや監督、舞台回しをする人たちは
そんな「欠点」も
しっかり解っていなければならないのだろう。


「ここはお前の出番だ、信用してるからな」
と確実に言うためには
相手の長所と短所の両方を深く理解していないといけない。
できないことを頼んでも、それはムダだ。
そいつにできることと、できないこと。
成功出来るシチュエーションと、失敗しやすい条件。
時によって変化するものもあるだろうとおもう。
人はずっと「おなじ」ではない。
成長したり、怠ければ後退することもある。
そのときのその人の状況と
潜在的に持ってる、長所と短所。
いいところと、むずかしいところ。
そういうのを理解している監督ほど、
「適材適所」
ができるんだろうとおもう。


人を信用する、ってそういうことなのかもなあとおもった。
何を信用するか。
自分から見てつよくうつくしく見えるところだけを見て「信用する」のは
多分、片手オチなのだ。
相手の弱さやもろさ、苦手分野、相手が興味を持てない分野、神経質になるポイントなど
「強くない部分」
が解ってはじめて
「ここ一番、信用するからね」
って言えるし、
相手が失敗しても、キライになったりしないでいられる。
「よくあんなこと言われて、ガマンしてるよね!」
って驚かされるほど忍耐強い人がいるが
「いや、あの上司もアレでけっこう、いいところあるんだよ」
とか答えられると、
この人はあの上司のいいところも悪いところも分かって、その上で信用してるんだなあ
と思う。
そういう「信用」は
単に相手の「いいところ」を信じてる人よりも、ずっと深くて強い感じがする。


「期待はずれ」
ということがあるが
それはそもそも、
「期待」
のほうがどこか、違っている
という場合も多いと思う。
その人に期待しちゃいけないことを期待してしまったのは
その人のことがよくわかってなかったからなのだろう。


弱いところと、強いところ。
その対比で、人は成り立っている。
そのせめぎ合いから、そのひとのなんたるかが浮かび上がってくる。
弱いところを消し込んでいけばカンペキ強くなれるか、というと
決してそんなことはないと思う。
むしろ、その人の弱いところが一切なくなってしまったら
その人は生命力自体を失って
倒れてしまうのではないだろうか。
おそらく
ものすごく孤独になると思う。


愛される
とは
必要とされる
ことだと誰かが言った。
とするなら
必要とする人

愛する人
だ。


私の祖母は90歳を超える年齢で
こないだ風邪を引いて、熱が高かったので入院した。
若い頃に交通事故にあい、片足が曲がらない。
でも頭はまだバリバリに元気で、マシンガントークが止まらない。
お見舞いに行ったらちょうど夕食の時間で
ベッドから助け起こして、車いすに乗せた。
この場合
必要とされているのは私で
必要としているのは祖母だ。
すなわち
愛している人は、ひとりでは立てない無力な祖母の方で
愛されている人は、祖母を抱きかかえて車いすに乗せる、私の方だ。


人は「愛されたい」と望む。
この場合
「愛する」側に権力がある。
愛されたい人は、愛を請うているのだ。
じゃあ、「愛する」ってどういうことか
というと
まさに「自分を無力にして、誰かを必要とする」ということ、だということになる。


人の弱さこそが、人が人を愛する力になる。
子供を愛するには
子供を「必要とされる存在」にしなければならない。
なんでもやってやるのではなく
なにかをやらせてやって「ありがとう」って言ってあげるのが「愛する」ことなんだろう。
母の日というのは本質的なしくみを含んでいる。
お母さんが息子に向かって、
にっこり笑って「ありがとう!これが欲しかったのよ!」とプレゼントを受け取ったとき、
子供はそこで、「必要とされた」のだから、すなわち、「愛された」ことになる。
母の「それが欲しくても手に入れられなかった」という「弱さ」を
子供が「助けた」ことにより
子供は「必要とされ」、「愛された」のだ。
自分のプレゼントに母が喜んだとき
深い満足を感じない子供はいない。
自分が何かをもらったときの「うれしさ」と
自分が何かをだれかにあたえて、それがとても喜ばれたときの「うれしさ」は
後者の方がずっと深く、充足感に満ちている。
なかなか消えないし、繰り返したくなる。


無論、こんなの単なる言葉遊びだ。
でもやっぱりおもうんだ
「死を待つ人々の家」
で、一番愛されていたのはマザー・テレサだったろう。
一番必要とされていたその人が
一番愛されていた人なんだろう。
彼女は「愛している」つもりだっただろうけど
その実、愛をほんとの意味で「与えて」いたのは、そこに横たわる「死を待つ人々」だったのだ。
「誰かに必要とされたい、愛されたい」。
それはそういうことなんだ。


愛された人は、自分を愛してくれる人を「必要とする」。
愛されたいのだから、そうしかならない。
「愛し、愛される」がここに成立する。
そして、
愛することと愛されることは
どちらか一方だけがうれしくてどちらか一方がうれしくないということはない。
プレゼントの授受のシーンを考えればよくわかる。
あたえる方も、もらった方も
2人とも深い幸福を感じるものだろうとおもう。
すくなくとも、それが表面的形式的やりとりでない場合においては。


私が幼い頃、祖母は私とよく遊んでくれた。
折り紙や縫い物、花の名前も、みんな祖母に教わった。
私が何もできない頃、とてもかわいがってくれた。
おむつも取り替えてもらい、抱っこしてもらった。
今、祖母が自分で自分の身体をうまく動かせないようになって
私がこうして、抱き起こしたりする。



弱さは信頼や愛の根本にある。
その繊細なもろさや弱さ、不安定さが、
誠実さや確かさ、強さとからまりあって
ひとつの心を揺さぶる印象にまとめあげられるのでないなら
愛や信頼は、そこにはないのだ。