石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

占い2。

5/4の日記へのコメント。


『今まで見てきたけど、ジョナサンも、ゆかりさんも、当たらない気がします。
 占いなんて、所詮そんなもんだって、自分で納得した。』




ジョナサンと並べて頂いて非常に光栄というかなんというか
月とすっぽんってこういうこと言うんだなと思うが
こういうコメントやご意見に
目をつぶっちゃいけないなと思う。


それは
当たるように頑張ろうと気合いを入れる
とかいう意味ではない。
「私の占いは当たりはずれが大事なのではないんですよ」
とかいうつもりもない。
「占い」は確実に「当たりはずれ」モンである。
本来の意義・定義からいって
「当たらない占い」は
ムダ
をとおりこして
インチキ
ウソ
なのだ。


では、当たっている占いは、インチキではないのか。
「インチキ」の定義にもよるけど、
私は、当たろうが当たるまいが
その正当性の根拠を(すくなくともまだ)説明できない「占い」というものは
ハッキリ言って
インチキ
だとおもっている。
もし根拠が説明できなくても
一〇〇発100中であたるなら、
それは「インチキ」じゃないと言えるのかもしれない。
でも、星占いの是非をおいといても
私が出してる「占い」は
はずれることがたくさんあるのだから
これは
インチキだ。
そんなことをやってしまってる自分を、恥じている。


星占いはもちろん、私が考えついたモノではない。
だれが最初に考えついたのか、わかってはいない。
季節の移り変わりを知るために、天体の動きから暦を作る、という作業は遙か古代にはじまり
その鬼っ子として生まれたのが、星占いだ(と思う)。
これが吉星で、あれが凶星だ
これが吉角で、あれが凶角だ
など
誰が決めたのかわからない。
この星座はこういうことを象徴します
など
何を根拠にしてるのかわからない。


自分で自分の書いた占いを、その週の終わりに見て
おお・・・当たってる
とおもうことも正直、ないではない。
一方
こんな重大なことが起こったのに、私はまるでトンチンカンなこと書いてるなあ
と思うことも、しばしばある。


以前、ある占星術をやる方とお話ししたとき
おなじホロスコープを見ているのに
その解釈が全然違ってるなあ!
という印象を持ったことがある。
「星占いは統計だ」
という方がある。
しかし実際に星占いを統計にかけると
あまり「有意な結果」は出ない、という話もある。
逆に、しっかり出る、と言う人もいる。
統計は、その仮説条件の設定に多くを負うので
星占いのような「象徴」の世界では、あまりうまくいかないんじゃないかと思う。


私が「星占い」の記事を書くときは
星と星、星座と星座が持っている象徴の世界を考えて
それをひとつのストーリーに組み立てる、という作業をしている。
で、当たったり当たらなかったりする。
当たるのが偶然なのか、当たらないのが偶然なのか、それはわからない。


今週はイイ週ですか、悪い週ですか、という質問がある。
実際、私も自分で自分の生活を生きていて
今週、徹底的に調子が悪いぞ、なんでこんなひどいことばっかり立て続けに起こるんだ
という週がある。
逆に、もう鮭と薔薇の日々・・じゃない、酒と薔薇の日々!幸せで死にそう!というときだって
ごくたまには、ある。
だから
「今週はどっちなのだろう」
と思う人のキモチも判るし
さらにいえば
「よさそうに書いてあるのに全然イイコトなんかなかった!」
「意味深なことを書いてるけど何も心当たりがない!」
という怒りを感じる人の気持ちも、わかる。


私は最近、思うのだが
「吉」
とか
「凶」
とかが、仮に「ある」と前提してホロスコープを見るに
イイコトや楽しいことを意味する星も
やなことや辛いことを意味する星も
つねに「そこにある」のだ。
なくならない。
すなわち
今週も来週も、金星や木星(イイと言われてる星)は、つねに空のどこかには、あるのだ。
さらに、土星とか火星とか、そういう厳しかったり鉄火だったりする星も
常に、空のどこかにある。
ホロスコープは「その主体から見た世界」を読み取る時計とか地図のようなものだ。
その人を取り巻く世界のどこに何があるかを見るのだ。
だから
もし星占いが「当たる」のだとするなら
その星が「ある」ということは
それはどこかには「ある」わけだ。
ラッキーもアンラッキーもつねに、
その人を取り巻く世界のどこかには、存在している。
いつもある。
消えない。



誰もが、安楽な面と辛い面を生活の中に併せ持っている。
このあいだ聞いて印象深かったのが、こういうたとえ話だ。


ここに、2人のおばあさんがいる。


一人は、とても裕福で数年前に夫を亡くし、
娘と息子が1人ずついる。
両方とも結婚して子供をもうけ、幸せに暮らしている。
2人とも、このおばあさんに同居をもとめており、
親子の仲は、どちらもとてもよい。
遊びに行けば大事にしてくれるし、孫もとても優しい。
でも、同居するとなんだか迷惑をかけるような気がするので、
今はひとりぼっちで暮らしている。
健康面も大きな問題はないし、茶飲み友達もすこしはあるが、
なんとなく淋しく心細く、日々が虚しく、
早くお迎えが来ればいいのに、と思っている。


もう一人は、若い頃に離婚をし、女手ひとつでそだてた息子がいる。
息子は数年前に殺人事件を起こし、今は服役中だ。
殺人犯である息子は全てを失って、世間から石つぶてを投げられながら、
一人の人間の命をうばったという苦しみを負って生きている。
そんなあの子の気持ちを、母である私だけはわかってやれる。
世界中を敵に回しても、私だけはあの子の味方だ。
あの子の味方になってやれるのは、この世に私しかいないのだ。
だから、息子が出所するまでは、絶対に死なずに元気でいる、と
こころにかたく思い決めて、一人で生きている。


この2人のうち、どちらが「幸福」か
というのが、この話のテーマだった。



人はなぜ占いをし、占いを見るのだろう。
どうして占いが生まれたのだろう。
非科学的だと解っていても
気休めだとおもっていても
信憑性なんかないと理性では気づいていても
何となく気になって見てしまう、ということ、結構あるんだろうと思う。
あてにならんよと言いながら
朝のテレビでラッキーアイテムなどを目にすると
つい、緑のハンカチを選んで持ってみたりしてしまう人
けっこういるのだそうだ。


『今まで見てきたけど、ジョナサンも、ゆかりさんも、当たらない気がします。
 占いなんて、所詮そんなもんだって、自分で納得した。』


まだこの根元的な設問に
私はうまく答えられない。
ただ、ひとつだけ思うのは
この方はおそらく、今、生活の中に
なんらかの苦しさや辛さ、あるいは空疎感などを
意識的にか、無意識にか
抱えていらっしゃるのではないか、ということだ。
うまくいかせたいのにうまくいかないことや
突破したいのに突破出来ない、いやな状況と
ずっと戦い続けているのだろう、ということだ。
私の占いには、変化の兆しを示唆する言葉がほんとにしばしば出てくる。
それは、
「今週はこの星座にどんな変化が起こるだろう?」
という目でホロスコープを見ているからだ。
人は刻々と変わっていく、じゃあこのタイミングでは何を変えることができるんだろう?
という視線でホロスコープを見ているのだ。
だから、「このような変化がありそうです」と書いてしまう。
ずっとおなじ、変わらないように思える難しい環境と戦い続けている人から見たら
こんなに「突破口」がたくさん出てくる占いなんか
片腹痛さでへそで茶が湧きそうだろうと思う。


私は、占いを書くとき
その人はできる限り精一杯の所まで頑張っているだろう、と仮定している。
だからこそ
「お疲れ様でした!」
とか書きたくなる。
誰だって必死に頑張っているのだ。
立ち止まったら立ち止まった成りにもがいているし、苦しんでいる。
そんななかで、的はずれの占いに一喜一憂させられたら
それは、誰だって腹が立つし、インチキなこと言いやがって、と思うだろう。
当たるも八卦当たらぬも八卦
なんて、占い師がデタラメで堂々と金を取るための言い訳だ、と思って当然だ。


日常は、「おなじ事の繰り返し」でできている。
でも同時に、全くおなじ日というのは、絶対に来ない。
毎日、どこかわずかに違っている。
完全におなじ事を繰り返しているつもりでも
なにかが違っている。
その「おなじ事の繰り返し」に焦点を当てることもできるし
「違い」に焦点を当てることもできると思う。
私は、私の占いが当たればいいとちょっとはおもうけど、
私の占いをあてにしてほしいとか
私の占いが当たることで読み手の役に立ちたいとかは
あまり思っていないところがある。
では、何を期待しているかというと
多分
「おなじ事の繰り返し」ではなく、「小さな、あるいは大きな差」のほうを
「LOOK!」
と指さしてる気分なのかもしれない。



今はまだ
自分の意図すら、その程度にしか解らない。
でも、私は
「お前の占いはあてにならない」
という意見は、大事だし、基本的だし、重要だと思っている。
それとどう向き合っていくかは、
占いを書いていくなら、絶対に考え続けてなければならないと思う。
あたるかあたらないか、
私にも解らないのだ。
ただ昔の人が「まじめにやれば当たる」といってるから
やってみてるだけ、という範囲を出ないのだ。


これが
このコメントへの
今の私の手持ちの回答だ。


このコメントを下さった方、ありがとうございます。