石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

流れ


「流れ」
という言葉をよく使う。



「流れが変わります」
と書いてあったとき
「上司の態度が変わるのかな」
と期待する人もいると思う。
その人にとっては、「上司の態度」が「流れ」なのだろう。
でも、上司がおなじ文章を読んだとき
「部下の動きが変わるかも」
と思う、かもしれない。
上司にとっては、部下が「流れ」になっている。



「流れ」って考えていくと難しい。
いいときより、滞ってるときの方が
「流れとはなんぞや」
という問いが心に浮かぶ。


「流れが変わります」
という表現はとても曖昧だ。
「流れ」はだいたい、追い風や向かい風のようなものとしてイメージされることが多い。
つまり、「自分以外のもの」だ。
でも、多分自分もその水の一滴であるところの、潮の流れであるのだとしたら
自分自身もまた「流れ」を作り出す力なんだろうと思う。


ときどき
世界全体を
電子顕微鏡みたいな、いや、もっと微細な、素粒子の世界まで見えるような「目」で見たら
どんなふうに見えるんだろう、と思う。
ただ粒子の濃い場所と薄い場所があるだけの、「濃淡」の世界なんじゃないかなと思う。
そこには「実体」「個体」はなくて
ただなにかが流動しているようにしか見えないだろうと思う。
そういう画像を頭で想像する。
どこからどこまでが自分で
どこからどこまでが自分じゃないかなど
その景色ではもはや
全く解らない。
神経が通ってるところまでが「自分」というイメージがあるけど
歯の治療で麻酔を打っただけでそのアイデンティティは崩れる。
もし肌の表面までだけがほんとに「自分」なのだったら
世の中にこんなにたくさんの、既に死んだ人のための裁判があるはずはないだろうとおもう。


だれのせい
自分のせい
という言い方もあるけど
そう考えてみると、これもちょっと違うのかもしれない。
自分じゃない人のせいだったら安心で
自分のせいだったら絶望、責められなくちゃいけない
のかというと
多分そういうものでもないと思う。
どこからどこまでを「自分の範囲」と考えるかで
ものごとはかわるけど
「絶対的にここまでは責任を負ってください」なんて
誰も定義ができないのだ。
定義できないから
法律がある。
簡単に定義できることなら、法律などなくてもみなそれを守るだろう。
「自分」なんて
上記電子顕微鏡的風景の中では
曖昧に集まった「粒子の比較的濃いところ」なわけだ。
それがほかの粒子を身の回りにまきつけたりとおざけたりして
ぼよぼよーと動いていく。
この全体像がまさに「流れ」なのではあるまいか
とおもったり
したりするわけだ。


「流れ」は簡単には感じ取れないし、説明できないし、もしかしたらそんなものはなくて
ただのデタラメなのかもしれない。
でも、
疲れたら休まなきゃいけないし
スランプもあるし、落ち込む日もあるけど
調子のいいとき、走ってるとき、喜んでる日もまた、確かにあったわけだ。
そういうのを考えると
自分にとっては「流れ」って、あるような気がする。
でもそれは、
白と黒の2色に塗り分けるような感覚ではない。
そのときリアルタイムの雰囲気は緑とか青とかパールホワイトとか、
なんというか、いろんな「色」だった。
白か黒か、上か下か、良か不良か、ではなかった。


にっこり笑えば伝わることや
目を見つめただけで心にうまれるものがあっても
そのことは説明することはできない。
だからそこにないもののような感じがするけど
でも、たぶんそういうものもある。


イイ流れがくるか、流れが悪くなっていくか。
「流れ」を完全に「環境」だと考えてしまうと
それは他律的に動いていく、こちらの意志とは全く関係ないものだ。
自分をむやみに押し流したり煽てたりする無体なものに思える。
でも、多分、
私が書く「流れ」とは
自分もその流れの中の一滴であるところの「流れ」だと思う。
満員電車の中で、自分も他人を押しながら他人に押されているように
その押し合いへし合いでひとが流れていくように
自分一人ではどうにもできないけど
何もしなければ何が起こるか解らない
という場なんだろう。
どんな車両の奥からでも、「降ります!」と声を上げればたいていは降りられる。
自分をおろそうとほんのちょっと身体をよじってくれる人たちの小さな動きの集積で
細いすじのような「流れ」が生まれる。


「流れ」は、外部の状況や環境ではなく
あくまで「関係性」という相互作用から生まれていると思う。
人事を尽くしてそれでもだめで疲れ切って眠り
翌朝目覚めて、ふと気づいたアイデアが流れを大きく変えることもある。
物事を関係させていくのは、人の意志や思いだ。
向こうが答えてくれるかどうか解らないままに
こちらがどうするかをなげかけるしかない場面が日々、本当にたくさん巡ってくる。
企画倒れもあれば、のれんに腕押しもある。
でも、ときに確かな手応えが返ってくることもある。


私は星を見て「流れ」のことを話すけど
そんなのおこがましいなあって思っている。
流れを作る人、流れを変える人は、たくさんいる。
その人達の多くは、周囲に感謝している。
なぜなら、その人達は自分から働きかけたからだ。
働きかけたあと、応えてもらえるときもあれば、応えてもらえないこともある。
叱責や拒否という「応答」もあるだろうし、表面的同意という「無視」もあるだろう。
その人の力で流れが変わったということは
その人の働きかけに応じた周囲があったということでもある。
2つのことがそろって、流れが変わったわけだ。
応答自体が働きかけとなっていて
自分がそれに応じることもあっただろうとおもう。
働きかけたり、働きかけに応じたり。
それで、流れが変わっていく。


メールで「流れ」のことを聞かれて
そんなことを考えた。


・・・・
今ちょっとぼーっとしていて
なんかまとまってないなあ(←いつもだろう