石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

amazing

会社でも家でもディスプレイに向かって文字を見てる時間がとても長い。
なので時々
頭の中の血液が文字の墨色に濁って
全く流れなくなる感じになることがある。
ひきだしに物を詰めすぎて、奥で引っかかってうまく開かなくなってしまい
結果、かろうじて開く、手前のものしか取り出せなくなってしまったりする。
息が苦しいような、頭の中が暗くなるような
そんな感じがしてきたらもはや
危険信号。



そういうときは散歩をしたり
プールに行ったりする。


それが慢性化して重傷になったときは
旅に出たりする。(写真は、そんなときのもの。)





例によって先日、プールに行った。
市民プールには「休憩時間」なるものがある。
「皆様の健康管理のために、10分間の休憩とさせて頂きます」
などと
押しつけがましいことを言われる。

入ったばかりでも強制的に10分休まなければならない。


仕方なく採暖室(変換できない・・・こんなの一般語だろ、日本中のプールにあるぞATOK、たのむよ)でベンチに座っていると
ふと、水着のおなかの部分にしわが寄っているのに気がついた。



なんと・・
私、もしかして
痩せた???(喜



と感激したのだが
冷静に考えればそんなわけはない。
ぴったりした水着にしわが寄るほど痩せるというのは
よほどの体系変化だが
他の服の装着感には、昨今特に変化は見られない。


つらつらと思いを巡らしていたら
この水着を買った日のことを思い出した。
そう、あれは暑い日で、8月も下旬だった。
吉祥寺のスポーツショップで安売りをしていて
バイト先からチャリンコをとばし、昼休みに買いにいったんだっけ・・・



ってそれ
いつやねん


吉祥寺にチャリで15分、そんな三鷹でバイトしていた頃。
それは
計算によると
10年も昔のことだった(爆


10年も着たら・・・・そりゃ、たるむよね(涙



というわけで
今週中にも水着を新調する予定。


何のオチもない日記でつらいが
自分が10年もおなじ水着を着ていた
それも
けっこうちょくちょくプールに行くにもかかわらずそれに気づかなかった
というあたりに
自分の生き方のなんたるかを改めて考えさせられた
というか単にショックだった
だけです。


ふ(涙


−−−−−−−




「うれしい」
という言葉にはどこか
「うれしいからもっともっと」とか
「そうなるってことは、あれもこれも可能になるのね」とか
そんな期待感が匂う。
「うれしい!」
といったとき
「いやいや、そんなに期待しないでね」
なんて言われることがある。
そういうときは、「期待させてしまった」という心理的負担をかけてしまった、と思って、
自分の「うれしい」という言動を、ちょっと後悔する。


そんなことがあるのでつい
「うれしい」
っていう言葉を飲み込んでしまう、ことがある。
ほんとはうれしいのに
意識して他の話をしちゃったりする。


でも


何を期待したのでも想像したのでもない、
ただ単純に
やったっ!うれしい!(^^)


・・・・

いえればよかった・・・かな・・。。ふ(涙


      • -


また新しい仕事がいくつか、はじまりかけている。
バイトもいれると18歳からずっとなにかしら「働いて」いるんだけど
最近ようやく、仕事ってひとりでやるんじゃないんだなあ、って
実感が湧くようになった。


私の歩みはどうも人と比べると
社会的に、遅い方だと思う。
でも、ゆっくりでももがきながら歩いていたらいつのまにか
こうやって「いろんな方と仕事」できるようになっていた。
自分一人じゃとてもできないようなことが実現する。


わくわくする。

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grace
という言葉にぴったりくる訳語が見つからない。
ある人から受けた印象を説明しようとしたときに
上品、とも、寛容、とも、愛嬌、とも、優雅、とも、強さ、とも
なんかみんなちがうなあ
とおもってたぐっていった結果
この言葉に行き着いた。


上品、というのも、優雅、というのも、部分だけど全体にはならない。
「寛容」とか「潔さ」みたいなものも入ってくると
これをヒトコトで表せる訳語ってちょっと思いつかない。
調べてみると「grace」には「選民」という意味もあるんだそうだ。
「神の恩寵を受けている状態」。


美しさや優雅さ、上品さなどは、「見た目」の問題だ。見た印象だ。
でも、それを生み出すのは、「実質」だ。それが「恩寵」「気骨」などにあたるのだろう。
「grace」という言葉は、
見た目とナカミをいっぺんにひとまとめにして語っている。
そういう日本語はちょっと思いつかない。


amazing grace
という歌があるが
graceはすべてamazingだ。
それを見て取ると、ずっと心に残る。
人間は弱い。
その弱さをもったままのところに
神様の恩寵としか思えないようなうつくしいなにかが宿る。
2つが溶け合ってそこに、強さやもろさ、しなやかさや優美さ、自由や自制などがうまれる。
強いものが強いだけならgraceは成立しない。
よく、アニメとかファンタジーとかで
天界に属する人と人間とが恋をして子供が生まれ、その子供がヒーローになるという設定があるが
あんな感じに似ている。
人間でもあるけれど、天界に属するなにかも持っている。
どっちか「だけ」では生まれ得ない、特筆すべき力がそこに生まれる。


「grace」って、
私の中では、スタティックなイメージではない。
でもなんだか強烈な安定感があるのも確かだ。
この2つの感触っていったいなんなんだろうって
この言葉にたどりついたあとでも
やっぱりわからないからずっと考えよう、みてわけてあわせていこう、と思う。


grace、はたとえば
多分、私の「うれしい」の意味も
正確に理解できる力なんだ。

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そういえば
「私たちは信じている、コトバの力を」
とかいうコピーが、どっかの新聞社のポスターに書かれていたが
私は、あれはほんとに頭にくる。


いわんとすることはわかっている。
ペンは剣よりも強し
とかそういうことがいいたいんだろう。


だが。
コトバを使う人間は
コトバの意味するところをいつも疑ってかからなければならないはずだ。
それが何を意味するのか、そのコトバに寄りかかっていないかどうか、
自分とコトバを疑って疑い抜いていなければならないはずだ。
コトバの力を恐れ、その意味を疑い、
いつもコトバに対して敏感に、緊張した状態を保つのが
コトバを扱う立場のせめてもの誠実さだと思う。
コトバの出所は事物にあるのではなく
あくまで書き手の頭の中にある。
自分の頭から出てくる言葉のことは、いつも疑っていなければならない。
できるかぎりそのようにしていてもやっぱり
自分の書いたコトバが何をするかは解らない。
どんなに気をつけて車を運転しても、事故の危険がゼロにならないのとおなじことだ。


私も書く人間だけど
いっぱい失敗してきた。
ミスもあったし、人も傷つけたし、マチガイを書いて訂正されたこともいっぱいある。
コトバは怖い。
その力を「信じる」なんて無邪気な気分にはとてもなれない。


この会社だって過去にいっぱい失敗してきている、
ウソもついたし、人も傷つけているだろう。
そこから、コトバの力に対して畏れを抱かなかったら、オカシイ。
もしそういう緊張感と戦慄をつねに心に抱いていたなら
こんな無邪気で楽天的なコピー、絶対思いつかないはずだ。
コトバの力を「信じて」いるかもしれないが
「解って」はいないんだろうとしか思えない。
「信じる」なら、借り物でもなんでもいいんだろう。
自分で語る意志がある人間は
コトバの力を「信じ」たりしないはずだ。



駅でこのポスターを見るたびに、
こんな、もくもく沸き上がる黒煙のような怒りを感じる。
心の中で
恥を知れ
と怒鳴ってしまう。