石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

ダイヤ

「星栞」という本で
カイロスとクロノスのことを書いた。




あれを書いたのは
個人的に、ちょうど、そうそうしょっちゅうおこるような事じゃないことが起こっていたときで
頭の中には、非日常の空気が満ちていた。
そのとき起こっていたことははっきり言って闇に属することだったが
それを力ずくで反転させるみたいに、ヤケクソにキラキラしたことを書いた。
覆い被さってくる何かをはねのけるみたいに、むりやり光を表現しようとした。


鉛筆の芯もダイヤも炭素でできている。
いくつかの時間が通る道の、おそろしいほど精密に設計された交差点で
それをどっちに転ばすか、選ばされる。
正しそうに見える方を選ぶこともできるし
逸脱と思える方向に行ってみることもできる。


そこまではいい。


私は、道上にダイヤがころがってるのだとおもっていた。
それを拾い上げるのだと思っていた。
あるいは、鉱山を孤独に掘り進めるとき、突然出会うものだろうと思っていた。
ダイヤ(或いは、炭)と私の関係は
1対1のものだとイメージしていた。


でもそれはそうじゃなかった。


それは
共有されるんだ。


だれかがくれるんでも一人で掘り出すんでもなく
孤立した人間同士がいくつかの選択を重ねていった結果
奇跡みたいにそこにころんと
生まれる
ものなのだ。


「つながり」というとき
つながった手の中には相手の手しかないのだと思っていた。
でもほんとは
「つながり」って、手をつなぐことをいうんじゃないんだ。
1つのダイヤの粒を複数の人間が一緒に持とうとするから
自然に手が繋がった状態になる、だけなんだ。
手で手を握ってるんじゃないんだ。
握っているのは、ダイヤの粒なんだ。
だから手が「つながってしまう」んだ。


時間を遡って記憶のログをたぐると
どうしてそこにそれが生まれ落ちたのかがわかる。
ほんとうの物語は読み返されるようにできている。
ある地点までたどり着かないと意味を成さない言葉というのがあるのだ。


ダイヤは美しい。
でも、工業に使うのでもない限り
利用価値は薄い。
人を飾り立てたり
預金代わりにしたり
そんなふうにみなされる。


でもなぜか
その石をまじまじと見つめるとき
自分にとってだけ、その石が限りない価値を持っているように見えることがある。
自分の魂そのものがそこに具現化されていると思えることがある。
誰にいくら積まれようと
絶対にだれにも渡したくないと思えることがある。


「つながり」を作り出す何か、
私が宝石になぞらえるなにか、にもまた
そんな性質がある。
それを掴もうとする人間同士にしか感じ取れない
絶対的な価値を持っている。


ような気がする。(きのせいかも