石井ゆかり@筋トレのブログです。
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自分勝手

iyukari2006-04-10

土鍋でパエリア作ってみた。


焦げ具合がちょっとアレだったが
非常においしくできた。



芸術的センスは皆無・・・・・(TT


デタラメやっているように見えるのになぜか素敵

スペイン的アート・料理には
なにかヒミツがあるのだろう。


そういえばJ-Waveに南ミブ氏が帰ってきていた。
スペインに1年留学していたのだそうだ。
なんか
なつかしかった。



ちょっと長いが
以下引用。


「・・・およそ芸術なるモノは、限りなく奔騰する生命の象徴としてのみ、-なんとニイチェは、うまいことを言ったものか、-はじめてその意味と価値とを持つものだからです。しかし拒否すべきロマン主義、私自身最も手きびしく拒否しているロマン主義というのは、現実の代りに錯覚と夢の世界を置き換えようとする精神的態度です。現在の要求ときびしさに堪えられないで、無責任な止めどのない空想の中に逃れようとする態度であり、-この現実に向かって対決することのできない、不能を言うのです!」


指揮者・フルトヴェングラーの言葉。


今週、週報で
海王星のテーマとしてよく出てくる「芸術」について書いた。
そのとき頭にあったのが、この言葉だ。
「現実の代わりに錯覚と夢の世界を置き換えようとする精神的態度」
とは
芸術すなわち「アート」を語る場で
よく出てくるイメージだとおもう。


でもちがうんだ。
フルトヴェングラーの言うとおり
「現実に向かって対決する」
すなわち
今目の前にあるそのひとやそのものから目をそらさない態度こそが
芸術の本質にあるのだと
彼は書いてるのだ。
指揮者は常に現場にいる。
だからこそ言えるんだろう。


「場」
において提供されるもの。
次元をいくつか加えると
そのテーマは常に他の言い方に置き換えられる。
「絵画」は芸術と呼ばれるが
ギャラリーに置かれると、それは芸術をはなれて「商品」になる。
「インテリア」になり、「展示物」になる。
「商品」が「店」になる。「店」が「ビジネス」になる。
でもわたしはおもうんだけど
「モノ」(音楽はモノですらない)だけに
芸術
が具現されているわけではないのではなかろうか。
「場」
それ自体に
そこでおこなわれるいくつかの活動そのものに
一人の人間の神経が隅々まで行き届いていて
そしてその「ゆきとどき」かたの根本に
他者と関係しながら変化や成長を遂げていく一個のまとまりとしての思想が息をしているなら
それはそれ全体でひとつのアートなのだ。
その「場」が
日々生起生成する人の出入りするできごとのうまれるその空間の、時間軸を通しての4次元シーケンスが
「芸術」と呼ばれて何の不都合があろうか。
問題は
アイデンティファイされる「核」と
そこから伸びる一連のシナプスの連携・集合である。
この神経細胞は空間にも時間にも人間にもそのダイナミズムにものばし尽くすことができる。


つまり
アーティストがそこにいれば
どんな活動でもアートたり得るのだ。
それはしかし
そのアーティストが
「現実の代わりに錯覚と夢の世界を置き換えようとする精神的態度」
に陥らない場合に限られるのだろう。


芸術という言葉や
美という言葉や
現実という言葉。
それらがもっているものは、無論それが語られるコンテクストによって異なる。
だから上記のようなことを書くのは単なる自分勝手に相違ないのは
まあ
よくわかっているわけで(だから日記なんかに書くのだが)


とにかくこのパエリヤは
アートではあり得ないのであった(おおざっぱすぎるんだいつも私の料理は)


でも絵的には
土鍋とパエリアって
合うな・・・・・・・・


スペインと日本の間に流れる地下水脈を感じる(爆