石井ゆかり@筋トレのブログです。
『星読み』もよろしく!

move!

本当に神様を信じていたら
山に「動け」といえば
山は動く。




そういう話が
聖書の中にある



かつて ある小説で読んだ。


先日、ある人と仕事の話をしていたとき
「山は動いた?」
と聞かれた。
ちなみに
その人も私もクリスチャンではない(確かめたわけではない。。。でもたぶんそう)


冒頭の話について私は
「信仰の強さの威力を語るたとえ話」だと思っていたのだが
その人のその言葉を今日電車の中でふと 思い出して
もしかしたらちがうのかな
と思った。


すなわち
あの「山」の話の焦点は
「スケールの違い」
なのかもしれない。
本当の究極の自分のでっかい真実が見えてしまったら
決して動かないように見える目の前のことは
難なく動く
っていうことなんだろうか。
大きなスケールのものをみつめていると
小さなスケールのものに立ち向かうのは 容易になる。
長期的なスパンで物事を考えると
いまさっきの失敗に
それほど心をとらわれなくても良くなる。
クリスチャンにとってもっとも大きな真実は神様であって
神様をじっとみつめることができたら
山だなんてのはちっちゃい存在なのだ。
要するに
動こうが動くまいがどうでもいいっていうか
うごくならうごけば
程度の存在なのかもしれないのだ。


いや
これは話がちょっとずれているっていうかむしろボけているが
さらにとんでもない曲解かもしれないが

いい。


山はフツウ動かないのだ。
風林火山
っていうのの最後は
動かざること山の如し
であって
つまり 山に動いてもらっちゃ困るのだ。
そんな、動かないものの代表である「山」が、動く。
絶対に動かないものの象徴であるものが、動く。
山をも動かす力。


なんだ
それは。


ときどき自分の中に
そういう衝動を感じることもある。
山みたいに大きなものを動かしてみたいと思う気持ち。
絶対に動かないと誰もが信じているものを自分の手で動かしてみたいという気持ち。
キモチというか、情熱というか、むなさわぎみたいなもの、というか。


クリスチャンにとっての神様
みたいなものが
私の中にはどうもみつからない。
でも
山を動かす原動力になるよーななにかがバクゼンとでも存在するからこそ
いっちょ 動かしてみたいぜ
という気分になるのではなかろうか(どうだろう


「それで、山は動いたの?」
と聞かれて
自分がなんと応えたかは忘れたのだが
今の私ならたぶん
「今、動かしてる最中っす」
と言うかもしれない。


動かすための有形無形の力を
私は今、実に多くの人に借りまくっている。
今日もちょっと軽めにジャブを打ってきた。
毎日
そんなことの繰り返し。



万が一動かなかったら
・・・・・・・


夜逃げだな(爆